1991年9月25日水曜日

ジ・オーブ「アドヴェンチャーズ・ビヨンド・ジ・ウルトラワールド」


 THE ORB唯一の構成メンバー、アレックス・パターソンに初めて出会ったのは、年の瀬も押し迫る昨年12月のある日のこと。南ロンドンにある彼のオフィス、EGレコードに、某音楽誌の取材のため訪れたのが切っ掛けであった。相手がボクのことをどう思ったのかは知らないが、ボクにとっての彼の第一印象は一言――「かわいい狂人(マッドマン)」――。理由はカンタン、だいたい初対面の人間に対して開ロー番——「ストップ・ザ・ジャパニーズ、ドント・キル・ザ・ドルフィンズ!」――なんて言うか? まったく、もう。しかしこの「イルカ発言」のおかげ(?)でボクらの仲は急速に狭まった。彼は決してジャーナリストには明らかにしないという自宅にまで案内してくれたのである。そこでイルカをCG(コンピューター・グラフィック)処理したTHE ORBのプロモーション・フィルムを見せられ、彼のイルカに対する深い愛情の念に初めて気付く。なんと!! イギリス南海岸に生息するイルカが保護されるべく年間200ポンドものお金を寄付しているらしい。彼はそういう人間なのである。またそういう優しい人間だからこそできたのが、――THE ORBのデビューアルバム(しかも2枚組)「アドヴェンチャーズ・ビヨンド・ザ・ウルトラワールド」――なのだ。

 THE ORBという名前は、そもそも球のことで、女王陛下が持っている宝珠の意、に由来する。水晶にも似たものらしいが、THE ORBのサウンドもまさに宝石そのもので、基本的サウンド・アプローチの方法は、アレックスの音楽的バックグランドでもある――「アンビエント・ミュージック」――によるところが大きい。彼のフェイバリットは、ブライアン・イーノであり、ペンギン・カフェ・オーケストラ、だという。とりわけブライアン・イーノへの傾倒はたいへんなもので、彼が19歳の頃LSDをやりながらイーノの傑作「ミュージック・フォー・ザ・フィルム」を初めて聴いた時、彼流の言い方をすれば『いけないぐらいの衝撃』を受けたらしい。それ以後彼はイーノを敬愛し、尊敬し続けることとなり、ついにはイーノが所属するEGレコードに入社することになる。

 アレックスが学校を卒業するや否やパンク・ムーヴメントが台頭する。彼はまずキリング・ジョークのローディーとして働くことになるが、キリング・ジョークには現在アレックスのフラットメイトであり幼なじみのユースがいた。その後ユースはキリング・ジョークを脱退し、THE KLFのジミー・コーティーらとブリリアントを結成するが、このバンドのマネージメントを、PWL王国の一人ピート・ウォーターマンとTHE KLFのビル・ドラモンドが担当していたというのは、現在では有名な話である。

 こうした経験がアレックスにとって、ユースとの友情関係のみならず音楽面においても強固なパートナーシップを生み出す結果となった。ユースと設立したレーベルW・A・U(現在のWAU! MR.MODOの基礎)は、その一つの好例であろう。W・A・Uとは、「Weird And Unconventional」もしくは「What About Us」の略である。アレックスとユース二人の力だけではもはや運営できないほどの仕事を抱えはじめたW・A・Uは、シェフィールド(イギリス北部に位置する)に住むアダム・モリソンとイヴォンヌ・ドノヴァンに協力を要請する。こうして設立されたのが、WAU! MR. MODOで、MODOとはモリスンのMOとドノヴァンのDOに由来する。89年4月のWAU! MR. MODOレーベル設立以後、アレックスの活躍には目を見張るものがある。

 THE ORBのサウンドが、アレックスのイーノ信仰によるアンビエント・ミュージックをベースにしている、ということは既に述べたが、ではTHE ORB独自のアンビエント・サウンド(これは後にアンビエント・ハウスへと変容する)とは何なのであろか。――それは、
 アレックスのDJ-ingから得たアイディアを基にしている。彼をDJの世界に引き入れたのは意外にもポール・オークンフォードで、当時ポールがDJをしていたスペクトラムというクラブの月曜日に「LAND OF EARTH」というアンビエント・クラブを作り、アレックスをこのクラブのDJとして招いたのである。ここにはアンビエント・ルームがあり、リラックスしながらドラッグ(といっても主にはマリファナ、ハッシッシのようなライトなもの)をとりながら、ある異次元空間へと吸い込まれるように自然と入っていく。擬似小宇宙空間――の創設である。つまりここには外界のダンス・ミュージックにありがちな強烈なダンス・ビートというものの必要性はいっさい無く、肉体的興奮を否定し、精神的高揚を促しながらエクスタシーの境地へと誘う、のである。「LAND OF EARTH」閉鎖後も(ドラッグ問題により)アレックスは、イギリスのみならずヨーロッパでもDJ活動を続け、特にベルリンの壁が崩れた日にそこでDJをした想い出は今でも印象的らしい。彼のDJスタイルは、3ターンテーブル、1CD、1テープ・マシーン(現在はDAT)が基本だ。色々な自然の音(鳥の鳴き声や風の音など)をテープに録ってサンプルし、ターンテーブルやCDとライヴ・ミックスしてアンビエント・サウンドを作る。例えば元GONGのギターリスト、スティーヴ・ヒレッジとのハウス・プロジェクト「システム7」では、鳩の羽ばたく音をサンプルしている。

 また彼のクリエイトしたアンビエント・サウンドは、THE KLFにも大きな影響を与えた。THE KLFに初めて参加したのは1988年にリリースされたシングル「3AMエターナル」のリミックス「ブルー・ダヌーブ・オービタル」。彼を東京の某クラブに案内した時、このリミクスをDJにかけてもらったんだけど、やっぱり今でも気に入っているということだった。THE KLFの傑作アンビエント・アルバム「チル・アウト」などは、アレックスのDJ-ingのアイディアそのままで、彼にそのオリジナル・テープを聞かせてもらったところ、まさにそのもの。ピンク・フロイド「原子心母」に似せた羊のジャケット・アイディアも当然彼によるもので、このTHE ORBのスリーブ・ジャケットもやはりフロイドの「アニマル」をモチーフにしている。ここに登場する「マクアルパイン」というパワーステーションはもはや操業されておらず、現在取り壊しの危機に曝されている。

 THE KLFへの参加が、そのメンバーであるジミー・コーティーと共に「THE ORB」をスタートさせることになる。WAU! MR. MODOよりリリースされた1stシングル「キッス・ザ・スカイ」は、レックス・ディー(アレックス・パターソン)&ロックマン(ジミー・コーティー)の名前もクレジットされているコラボレーション作品。しかし楽曲的にも「THE ORB」が成熟するのは2ndシングル、通称ラヴィング・ユー、と呼ばれるディスク2/5曲目まで待たなければならない。このアルバムのミックスはアレックス自身によるライヴ・アンビエント・ミックスになっているが、シングルではダンサブルなアンビエント・ハウスに仕上げている。12"シングルのオリジナル・ヴァージョンはミニー・リパートンのトラック、リミックスではスザンヌというプロのシンガーに歌わせるという手のこんだこともやっている。しかしこの曲のヴォーカルに対する意見の分裂から二人は別れてしまう。そしてアレックスだけが残った「THE ORB」は決して失速することはなかったのだ。ディスク1/1曲目、ディスク2/1曲目と次々とシングル・カットし、業界に常に新鮮な話題を提供している。特に後者は新しいトレンド「ダブ・セックス」の中でも代表曲といわれている。レゲエから派生したダブ・ミュージックがハウスと融合した新しい音楽のカタチ。要チェックだ!

 「THE ORB」にとってアルバムの一曲一曲が各々ひとつひとつのアイディアなのである。つまり10分間の音楽の世界、ここに「THE ORB」は生息している。スコットランドで6月にジミーと会った時、彼はこのアルバムを絶賛していた。このサウンドが二人の間の垣根を取り除いたのである。

 このアルバムは男性よりも女性に多く好まれている、と伝え聞く。おそらくそれは彼自身がとてもフェミニンな性格ゆえのことだろう。限りなく深く優しくも柔らかな愛のアルバム、そんな印象のこのアルバムを是非末永く聞き続けて欲しい。いつまでも、いつまでも…………。

NOBBY STYLE(宇野正展)

1991年9月21日土曜日

ボム・ザ・ベース「Unknown Territory」

 


 80年代半ばロンドン。チャイニーズの血を引く一人の少年は、ウエスト・エンドのレストランで、あるいはクラブ<WAG>で働いては、その稼ぎを当時、ドイツから流れてくるテクノ・サウンドのレコード代に費やしていた。それはデペッシュ・モードであり、もちろんクラフトワークであり、ときとしてジェイムス・ブラウンでもあった。少年の名はティム・シムノン。DJの卵であった。そして、彼はせっせと稼いだお金から300ポンドをはたいて自らの曲をレコーディングする。その曲こそ、後に「2nd・サマー・オブ・ラブ」と称される1988年ロンドンの、アシッド・ハウス爆発に大きく貢献する、「ビート・ディス」の原形であった。そう、1988年に、ボム・ザ・ベース(爆発するベース)というとびきり素敵な名前でリズム・キング・レコードからデビューする、その予兆だったのである。

 ここでボム・ザ・ベースがデビューする1988年のロンドンという、特別な年について若干触れておきたい。何故なら1987年から88年という前述した「2nd・サマー・オブ・ラブ」こそ、現在のブリティッシュ・ダンス・シーンを語るうえで欠かせない、極めて劇的な時代だったからである。

 まず断っておきたいのは、70年代後半からポピュラー・ミュージックの主導権はダンス(ディスコ)ミュージックに移行している。それは70年代の終わりにロックの死を宣言し、「デス・ディスコ」(PIL)という曲によってダンス・ミュージックを実践したジョン・ライドンにも象徴されるようにドナ・サマーの出現以来、より多くの人たちに受け入れられる音楽(つまりヒット・チャート)はダンス・ミュージックに独占されていった。そして、それは密かにある革命を予告していたのである。クラブ(ディスコ)の出現である。これは、それまでのポピュラー・ミュージックに対する認識を、根底から覆してしまったのだから。

 もともとポピュラー・ミュージックはコンサート会場やライブハウスといった特定のトポスで、パフォーマーVSファンという構造のもと、コミュニケーションをとろうとするものであった。が、ダンス・ミュージックの特性はパフォーマー不在のクラブという空間で、DJというメディアがセレクト(編集)した曲に合わせて、クラバー、すなわちそこに集まる人たちが踊るというものである。実際の演奏行為に対し踊るわけではない。あらかじめ記録された音源(レコード)を、DJというメタ・パフォーマー(要するに単なるファンでは満足できなくなった聴き手)が好き勝手に編集した音に合わせて踊るのである。これはスターダム・システムの崩壊である。それが良質なダンス・ミュージックであるなら、他人がつくったレコードを適当に編集しなおしたり、(これをリミックスと呼ぶ)、他人のレコードで好きなフレーズがあったら、それをパクって(カット・アップ!)しまっても一向に構わないのである。クラブ・ミュージックとは、従来のシステムをいっさい無視して、音楽ファンがファンであることを放棄した、多分、最初のムーブメントであったのだ(ここまでDJについての解説を加えた理由については、後述するとしよう)。とにかく、「2nd・サマー・オブ・ラブ」は、こうしたクラブ・ミュージックがいっきに爆発したときだったのである。

 そこには、あらゆるジャンルのダンス・ミュージックが集結していた。レゲエの流れを汲むグラウンド・ビート、ノーザン・ソウルなどの洗礼を受けたレア・グルーヴ、テクノやオルタナティブ・ミュージックが進化したエレクトロニック・ボディ・ミュージック、そしてもちろん、当時のNYから届いたアシッド・ハウスやヒップホップ、デトロイト・テクノなど、あらゆるジャンルは、ダンス・ミュージックというキーによって取り払われ、流行したドラッグ”エクスタシー”の効果、廃墟を占領してのウェア・ハウス・パーティやパイレーツ・ラジオ(自由ラジオ)などの活躍もあって、それまでアンダーグラウンド的な動きでしかなかったクラブ・シーンは、唐突にオーバー・シーンへと浮上してしまったのである。

 この時代精神によって創設されたリズム・キングから、ボム・ザ・ベースは「ビート・ディス」をリリースするのである。流血したスマイル・マークが印象的なジャケットを呈したこのデビュー・シングルは、イギリスでヒットし、またたく間にティム・シムノンの名を世間に知らしめることになる。ちなみにほぼ同時期にデビューしたアーティストをいくつか挙げるとKLF(当時はJAMS)、M/A/R/R/S、808ステイト、エス・エクスプレス、ピート・マスターズ、ソウルIIソウル、ベイビー・フォード、コールド・カット、マッシヴ・アタック、T-コイなどがいる。このメンツをみれば、いかに「2nd・サマー・オブ・ラブ」が重要であったかが理解できると思うし、また注目すべきは、これらのアーティストが(ティム・シムノンも含めて)DJあがりだということであろう。ここに80年代ポピュラー・ミュージックの、革命的な一面をうかがうことができる。ここまで長々と、「2nd・サマー・オブ・ラブ」に関する説明を続けたのは、ティム・シムノンがデビューした時代的背景を理解するうえで少しでも役にたてばと思ってのことだ。90年代に入ってあわてふためいたように「これからはハウスじゃ」などと騒いでいる日本のメディアに、今さらケチをつける気はないが、ティムは少なくとも88年の本質的な意味での「これからはハウスじゃ」という時代の当事者であり、時代の裂け目の中からバンド名のとおり、とびきりの爆弾を仕掛けてくれた人なのである(心して聴こう!)。

 ボム・ザ・ベースは1988年にファースト・アルバム『イントゥ・ザ・ドラゴン』を発表している。これは彼の音楽的ルーツであるジャーマン・テクノの影響が大きく比重をしめたものであった。それから3年。長い沈黙があった。今年(1991年)に入って女性ヴォーカリスト、ロレッタをフィーチャーしたシングル「LOVE SO TRUE」がリリースされた。ボム・ザ・ベースではなくティム・シムノン名義であった。例の湾岸戦争による規制のためボム・ザ・ベースなんて名前は使えなかった。音のほうは「えっ、これがティムなの?」と言ってしまいそうなくらいソウル・ミュージック色が強い作品であった。ちっとも悪い作品ではない。でも、それはやはり「爆発するベース音」とは思えなかったし、僕にしてみれば、わがままとはいえ、物足りなかったのである。ふがぁぁ。

 ここに、3年振りのアルバム、本作「UNKNOWN TERRITORY」が届いた。先行してリリースされたシングル「WINTER IN JULY」も「LOVE SO TRUE」同様にポップでソウルフルな曲だった。いい曲だ。でも、わがままな聴き手はいつまでもわがままなものである。僕は、どうしてもあのベース音を、サイバー・テクノを聴きたかったのである。(リミックス・ヴァージョンは、あのボム・ザ・ベース!といった感じだったけどね)。まあ、そんな複雑な感情をもって、本作に挑んだ。で、1曲目「THROUGH OUT THE ENTIRE WORLD」のイントロが始まれば・・・。

 これなのである。このかっこよさ。これがボム・ザ・ベースなのである。僕は嬉しい。以下、各曲の解説なぞ不要であろう。ただ、一応、ライナーノーツらしくデータを挙げておこう。ゲスト・ミュージシャンとして、鈴木賢二、そして屋敷豪太が参加している。鈴木賢二のギターは、けっして弾きすぎることなく、ストイックに無機質な趣で導入されている。彼のテクニックとティムの資質が見事に結実した曲が、たとえば2曲目の「SWITCHING CHANNELS」であろう。僕個人としては、好きな曲である(このタイプの曲もシングル・カットしてほしいよん)。

 ところで僕は、本作リリース前に、ロンドンでティム・シムノンとそのメンバーたちに会っている。ティムはかつて雑誌でみた、帽子とパーカーとスマイル・マークが似合う、「サンダーバード」をサンプリングするような笑顔の少年ではなかった。それはそうである。なにしろあれから3年たったのだから。その3年の間にティムも当然変わったのだ。もはやスマイル・マークは必要ないし、キャップを被ることもない。髪も短くさっぱりとして、一見、物静かな好青年である。それを想うとシングル「WINTER IN JULY」が懐かしく響く。7月の冬。

 「2度目の恋の夏」は確実に終わったことなのである。だからこそ、新しい爆弾が必要なのだ。3年前の爆弾ではない。夏の終わりと新たなる始まりを予感させる、素敵な爆弾が。そして、あなたが今手にとっているコレは、きっと、僕らを夢中にしてくれる爆弾にちがいない。夏よ、また来い!

(野田努)

クアドロフォニア「COZMIC JAM」


「僕はニュー・ビートなんか嫌いだ。
 僕はずっとアンダーグラウンドハウスばかり聴いていたんだ」(オリバー・アベルース)

ベルギー、アントワープで会った無口な若きテクノ少年は、
自らのバック・グラウンドがひたすらマイナーであることを強調していた。
が、この少年、オリバー・アベルースこそ、
'91年度、ベルギーの、まったくの新人でありながら
クアドロフォニアというプロジェクトでヒットを飛ばしてしまう、
アンダーグラウンドどころではない、誰もが認めるブライテスト・ホープなのである。

実際にクアドロフォニアのヒットしたファースト・シングル
「クアドロフォニア」(本アルバム1曲目に収録)は見事なヒップ・ハウスであった。
売れないほうがおかしい、ポップでスピード感が溢れる、文句のつけようもない曲だ。
その曲の作者がオリバー・アベルース、という20代そこそこの若者なのだ。
最初に断言しておきたい。
間違いなくこのオリバー・アベルースは、
今後のベルジャン・ハウス・シーンにおいてもっとも注目すべき人物である。
それは、やはり本年('91年)にイギリスでスマッシュ・ヒットとなった
T99の「アナスタシア」がオリバーの別プロジェクトであることを知れば、
頷いていただけることだろう。

さて、ここでクアドロフォニアについていくらか解説しよう。
クアドロフォニアは、オリバー・アベルースと
黒人ラッパーのリヴ・マスターを中心に'90年に結成されている。
本作でも迫力あるラッピングを聴かせてくれるリヴは、
アメリカはカリフォルニア出身であり、軍人としてオランダにやってきている。
アメリカに住んでいたころ聴いたL.L.クールJがヒーローだったリヴは、
80年代の半ばにヨーロッパにやってきて、
そのままダンス・ミュージック・シーンのなかに飛び込んでいく。
当時のヨーロッパ、とくにベルギーは、
ニュー・ビートと呼ばれるダンス・ミュージックが始動しはじめたころで、
先鋭的なアーティストであるなら大抵は、
ヒップ・ホップの洗礼をうけた黒人に対して積極的な興味を示していたという。
リヴは、除隊してソウルとヒップ・ホップ、
そしてニュー・ビートが融合するプロジェクト、ファンキー・トライブを結成する。
ここで本作のプロデューサーであり、
また、オリバーとも深い交際のあるパトリック・デ・マイヤーと出会う。
バトリック・デ・マイヤーは初期のテクノトロニックに関係していた人物であり、
ニュー・ビートをメジャーにしたという意味においては、
テクノトロニックのジョー・ボガートと並んで菫要な人物である。
このファンキー・トライブは「ハイプ・イット・アップ」と
「ソウル・パトロール」という2枚のシングルをリリースして、
ドイツではクラブ・ヒットとなっている。

一方、オリバー・アベルースは、14歳からDJを始め、
45回転のレコードを33回転でかけるなど、一風変わったことをしていたようだ。
彼に言わせれば、回転数を遅くかけることによって、
ヘヴィーなベース音が得られるということである。
彼が当時、好んでかけていたのが
タキシード・ムーンであり、リキッド・リキッドであることからも、
自らをアンダーグラウンドだと主張する彼の趣向を垣間見ることができる。

この趣味もセンスもまったく違う二人が、
前述したバトリックの紹介によって出会うのである。
そう考えると、このバトリックこそが実は要注意人物なのかもしれない。
オリバーはこのことを
「自分にとってはまったく新しい作業のはじまりだった」と言っている。
テクノやアンダーグラウンド・ミュージックが好きな、
才能あるこの青年に、
もっとちがったやり方を勧めたのがパトリックだったわけである。
そして、それがものの見事にヒットしてしまったのである。

本作「COZMIC JAM」は、リヴのブラック・ソウルな個性と、オリバーのテクノ趣味が
センスよく出合っている(というか、ほとんど戦いみたいなものだけど)秀作だ。
808ステイトが好きだというオリバーの打ち込みドラミングには、
たしかにその影響がみられるし、
その影響をきちんと消化している彼の技量には、改めて驚かされる。
とくに7曲目など、すばらしいテクノ・サウンドを展開している。
また、リヴのドスのきいたラッピングも聴きごたえ充分で、
オリバーのハード・テクノに負けていない。

これはベルジャン・ハウス、90年代の幕開けである。
できるだけ大音量で聴いてほしい。
バンド名である「4次元サウンド」の由来が納得できるはずである。


この録音テクニックにこそ、クアドロフオニアの本質があるのかもしれない。
オリバー、リヴ、バトリックが企んだ、新しいダンス・ミュージック創造への試みが。


(野田努)

1991年6月28日金曜日

The KLF 「ザ・ホワイト・ルーム」

  ボクが初めてTHE KLFと会ったのは忘れもしない90年7月。ロンドン名物の深い霧を思わせる視界があまりきかないある雨の朝、THE KLFの参謀? ビル・ドラモンドと会う。いかにも英国紳士、といった感じの彼は静かな口調で語った。

―――――「チャートNo.1を狙う!」―――――

 と。そして彼は出来上がったばかりのNEWシングルのコピーを1枚、渡してくれた。その曲とは勿論、

♡♡「WHAT TIME IS LOVE?」♡♡♡♡

UKをはじめヨーロッパ各国でビッグ・ヒットを獲得したこのシングル、ビル・ドラモンドの有言実行さを証明した結果となった。

 THE KLFは1987年1月、独創的で攻撃的な2人、ビル・ドラモンドとジミー・コーティーによって開始された。

 ビル・ドラモンドは、1977-1978年にリヴァプールでインディペンデント・ロック・グループBIG IN JAPANを創立した。78年後半にはデイヴィット・バルフィと共に最初のインディレーベルTHE ZOOを設立し、今日の音楽シーンの基礎を築いている。このZOOレーベルからは、BIG IN JAPANをはじめエコー&ザ・バニーメンそしてティアドロップ・エクスプローズなどがレコードをリリースしている。80年代初頭の「リヴァプール・シーン」の発頭人であり、プロデューサー、マネージャー、パブリッシャーとして主に裏方の役目に徹していた。1985年には、1年と50万ポンド(WEAのプロモーション費用)を費やして、現PWLのピーター・ウォーターマンと共に、パンク・ファンク・ロッカーズのBRILLIANTを国際的にヒットするスーパースターに変身させようと努める。BRILLIANTにはジミー・コーティーやブルー・パールでもおなじみYOUTHが在籍していた。もしかしたらビルとジミーの間で、THE KLFの初期的構想がすでにこの時練られていたのかもしれない。アンダーグランドでの評価は高かったもののBRILLIANTは、セールス的には失敗に終った。その後1986年にはクリエイション・レコードから、初めてにして唯一のソロ・レコード「THE MAN」をリリース。後にTHE KLFのアルバム「CHILL OUT」の音楽的コンセプトの一部となったスライド・ギターやカントリー・ミュージックへの傾倒をこのソロアルバムでは色濃く反映していた。

 そしてついに記念すべき年1987年1月を迎えたのである。

 THE KLF元年で1987年の間、ジミーとビルは、JUSTIFIED ANCIENTS OF MU MU(通称THE JAMS)という名前で活動した。それぞれ別称ロックマン・ロックとキング・ボーイ・Dを使って「1987(WHAT THE FUCK IS GOING ON?)」と、「WHO KILLED THE JAMS?」という2枚のアルバムをTHE JAMSとしてリリースしている。彼らの音楽の解釈の中で他のアーティストの楽曲を自由自在に使用することは、アバの「ダンシング・クイーン」における著作権問題で裁判沙汰を引き起こし、THE JAMSのデビュー・アルバム「1987」の未売品すべての破棄という結果に結びついた。続く2ndアルバム「WHO KILLED〜」のジャケットには、この時破棄処分となったレコードを焼く写真が使われている。「誰がJAMSを殺したか?」なんて意味深長なアルバム・タイトルにも彼らの著作権に対する逆説的メッセージが訴えられている。「著作権解放前線」という意の刺激的なネーミングをもつTHE KLFは、現在なお著作権解放をめぐって、抗争の日々を続けている。1988年、ジミーとビルにとっての第2ラウンドの年が始まった。新しいプロジェクトTHE TIMELOADSの名の下、リリースしたシングル「DOCTORIN' THE TARDIS」は公約通りUKナショナル・チャートでNo.1を獲得。“偉大なるポップ・ミュージック”のふれこみで、極めて英国的伝統的要素にあふれた内容であった。しかしTHE TIMELOADSは完全なるONE-OFF(一回限りの)プロジェクトで、これ以後現在に至るまでこれに続く作品はリリースされていない。

 この年11月、12月にTHE KLFの映画「THE WHITE ROOM」の撮影が行われた。この映画は彼らにとって初の35mm本格的アンビエント・ムービーで、監督はビル・バット。これは91年中には完成の予定となっている。

 1989年からTHE KLFとしての活動に専念することになった彼らは「WHAT TIME IS LOVE?」「3A.M. ETERNAL」という2枚のシングルをリリース。ロンドンのアンダーグランドクラブ・カルチャーのテーマ曲ともいえる傑作を世に送りだしたのである。折しもロンドンは、ACIDハウス全盛で、ウェアハウス・レイヴ・パーティー(非合法のアシッド・パーティー)が各地で行われていた。クラブ・チャートもアシッド・ハウスを中心に構成され、寝ても覚めても(冗談ではなく覚めないこともままある)のACID現象はついに社会問題にまで発展していく。「ピースマーク」と「エクスタシー(通称Eというドラッグ)」がクラブ・カルチャーを完全に掌握し、それと共によりいっそう厳しさを増した警察当局からの弾圧で逆にクラブ・カルチャーは地下へ地下へと潜伏していくことになる。そんな中「WHATTIME~」「3A.M.~」は、そのニーズをますます高めていく。特に「WHAT TIME~」は、数多くのカヴァー・ヴァージョンや似たサウンド(今日でもよくある)の曲を生む刺激となり、彼らはその優れたものを集めてひとつのミニ・アルバム「THE WHAT TIME IS LOVE STORY」と名付けてリリースした。この中には後に今日のTHE KLFの成功をフォローしたシングル「WHAT TIME IS LOVE?(LIVE AT TRANCENTRAL)」のアイディアを提供したライヴ・ヴァージョンやACIDハウスのニュービート・ヴァージョン、BODYミュージックのLIAISON D、NEON、DR.FELIXによるカヴァー・ヴァージョンが収録されている。一方「3A.M.~」のリミックスをTHE ORBのアレックス・パターソンが担当していることからもわかる通り、この時期を境にして彼らは自らのサウンドを「アンビエント・ハウス」と呼ぶようになる。

 1990年2月、UK本国よりも日本での人気を確立することになるアルバム「CHILL OUT」を発表。このアルバムは彼らにとって最初のアンビエント・ハウスのアルバムとなる。しかしこのアルバムの基本的コンセプトは彼ら自身のものではなく、THE ORBのアレックス・パターソンがDJイングをしたときに築きあげたアイディアを基にしている。ピンク・フロイド「原子心母」にインスパイアされたジャケットも評判を呼んだ。

 7月、名曲「WHAT TIME IS LOVE?」の彼ら自身によるカヴァー・ヴァージョンをリリースした。S.S.L.コンソールでの擬似ライヴ・ヴァージョンとMCベルOによる極上ラップで踊れる歌えるKLFへと変身した。UKナショナル・チャートで5位、ドイツとスカンディナヴィアでトップ10を獲得し、クラブでの不動の人気を勝ち得たのである。

 1991年1月「3A.M. ETERNAL」のカヴァー・ヴァージョンをリリース。UKシングル・チャートでは、ナショナルチャート、クラブ・チャート共に念願のNo.1を獲得している。現在はこちらもカヴァー・ヴァージョンとなる第3弾シングル「LAST TRAIN TO TRANCENTRAL」がUKチャートを急上昇中である。ここでアルバムの内容にも触れておく。1はシングルのヴァージョンとは違うアルバムのみのミックスで、アンビエント風のアレンジで漂うのもつかの間、いきなり攻撃的で強烈なビートがINN。カッコE!の一言。2は8同様、UK音楽誌「レコード・ミラー」のクールカッツ・チャートで、シングルカットされていないにもかかわらずチャートインしてしまった、という不思議な曲。808ステイト風のテクノハウスに、ディープな女性ヴォーカルがからむ。DJがいかにも好きそうな1曲だ。3はシングルと同じミックスできっと楽しめることだろう。4はとても美しいメロディラインのアンビエント・ハウスで、5の導入部となっている。5は日本盤のみの12インチ・ヴァージョンで、途中でテーマとなるシンセのフレーズに魅了されない人はいないであろう。アルバム中一番のオススメだ。6はアンビエントハウスを心ゆくまで堪能したい向きの人にはたまらないであろう。特にペダル・スティール。傑作「CHILL OUT」を思わせる深いサウンドが従来のKLFファンにも支持されている。7はDUBっぽいノリのアンビエント・ハウス。今年の夏は、この手のDUBがトレンドだ。8も6に似た美しいピアノの旋律をもつ曲。9は実は1のイントロ部にも使われている曲で、結局リフレインしてしまうという彼ららしいコンセプトになっている。この日本盤には101112のボーナス・トラックが収録されている。ターンテーブルをお持ちではない方にはウレシイ企画にちがいない。

 さあ早速THE KLFのパラレル・ワールドへ入り込んでみて下さい!!

NOBBY STYLE
(宇野正展)



1991年4月25日木曜日

808State 「Ex:el」


  これはいい。何というゴージャスなここちよさだろう。

 808ステイトのニュー・アルバム「EX:EL」――ライナー・ノーツを書くためにレコード会社から渡されたテープを、冗談抜きに朝から晩まで聴き続けたオフィスではウォークマンで、そして家ではスピーカーから流れるエレクトロニクス・サウンドにどっぷりと浸る日は10日ほど続いただろうか。

 まったく飽きないのだ、不思議なことに。2、3日前にCDを手に入れてからは、ほとんどリピートでかけっぱなしにしているのだが、未だに新鮮さを感じるのだ。

 僕は、これを聴きながらThe ORBのアレックス・パターソンの言葉を思い出していた。「ディープにも、意味ありげになってもいけない。心を開き、アンビエンスの中に入り込めばいい。それこそがハウス・ミュージックの美学なのだ。精神を開かれたものにすること――最良のアンビエント・ハウスは決して退屈なものではない。繰り返し一晩中聴き続けたとしても。最良のハウス・ミュージックは、トリガー・メカニズムを持っている。音が唇に降り注ぎ、顔には微笑を浮かべさせてしまうような…」

 808ステイトの「EX:EL」は、そのアレックス・パターソンの定義に従えば、まさに“最良のハウス・ミュージック”に他ならない。だが、何かひっかかる。…。これは"ハウス”なのだろうか?"ハウス”というカテゴライズが、ここにあてはまるのか?もしそうでないとしたら、いったい…?


 808ステイトの成功は、イギリスにおけるハウス・ムーヴメントがアンダーグラウンドを抜け出してオーバー・グラウンドへと躍り出ていった、そのサイクルにちょうどシンクロしている。88年春、マンチェスターで結成された808ステイトが、自分たちのレーベル、Creedから出したファーストアルバム「NEWBUILD」は、アンダーグラウンドなアシッド・ハウス・シーンの一部で話題になったに過ぎなかった。だが、89年夏にリリースしたミニ・アルバム「Quadrastate」で、オーガニックでなめらかなサウンドに転じ、その中の「パシフィック・ステイト」がクラブ・シーンでヒットを記録したことで彼らの運命が変わった。この「パシフィック・ステイト」こそ、808ステイトを一気にメジャー・シーンへと押し上げ、アンダーグラウンドの足かせから解放した上で、ハウス・ミュージックに新しい道を開いたという観点からも、重要な曲となったのである。

 このヒットにより、トレヴァー・ホーンのZTTレーベルとの契約にこぎつけた808ステイトは89年末、「パシフィック・ステイト」の別ヴァージョンを含むアルバム「ナインティ」をリリース、その地盤を着々と固めてゆく。808ステイトの名は、ハウス・シーンにおけるステイタス・シンボルとして注目を集め始め、特にエンジニアとしてのグラハム・マッシーのもとには、さまざまなアーティストのリミキサー/エンジニアとしての仕事依頼が殺到するようになる。インスパイラル・カーペッツの「Joe」を始め、シェイメンの「Human NRG」、元キリング・ジョークのユース率いるブルー・パールの「Naked In The Rain」、フラワーポット・メン改めサンソニックの「Driveaway」、ブライアン・イーノとの共同作業で知られるアンビエント・トランペッター、ジョン・ハッセルの「Voiceprint」など、数多くのレコードに彼らの名前を見出すことができる。「808Remix」というステッカーは、聴き手にとってもおおいに魅力的なものだ。

 これは確かに余技的な仕事にすぎない。しかし彼らはハウスのアーティストとしては珍しくいくつかのツアーをこなし、また昔から彼らと親しい白人ラッパー、MCチューンズのバックトラックを全面的に手掛けながら、808ステイトとしての作品を生み出すことに精力を傾けていくことを忘れたりはしなかった。「ナインティ」の後、「The Extended Pleasure of Dance」、そしてアメリカのみ特別に6曲が追加された米国盤「ナインテイ」およびシングル「Cubik」(ここには後に「EX:EL」に収められる「In Yer Face」が収められている。従って「Cubik」も「In Yer Face」も、アメリカで先にリリースされたということになる)をリリース、続いてイギリスで「Cubik/Olympic」の2枚のリミックス盤を出した808ステイトは、91年に入り、「In Yer Face」のリミックス・シングルを2枚リリースする。そして間もなく届いたのがこのアルバム「EX:EL」なのである。

 ジャケットの「808」のロゴが、ZTTと契約する前のアルバムで使われたタイプに戻っているという話題はさておき、このアルバムで最も注目されるのは、2人の驚くべきゲストの参加に違いない。

 2曲目の「スパニッシュ・ハート」でヴォーカルを披露するのは、マンチェスターのダンス・ムーヴメントの草分けとも言えるニューオーダーのバーナード・サムナー。ロックに、ヒップホップ等のダンス・リズムをいちはやく取り入れ、独自の音響記号論を展開していったニュー・オーダーは、808ステイトが彼らと同じスタンスにいることを見抜き、また808ステイトの方もニュー・オーダーをロックにダンスを取り込んだ開拓者として尊敬しているという具合で、交流もあったようだ。バーナードは808ステイトのギグに飛び入りし、「マジカル・ドリーム」を歌ったこともある。この「スパニッシュ・ハート」は、ニュー・オーダーの「テクニーク」に収められていても不思議はないほど(事実、この歌詞の内容は「テクニーク」の中の「ミスター・ディスコ」の続篇的なものだという)ニュー・オーダー的になっているが、それはやはりバーナードのヨロヨロしたヴォーカルのせいだろう。808のダーレンは言う。「僕たちはこの曲を意識的に"非ニューオーダー的”にしたつもりだったんだけど、バーナードのヴォーカルが入るとそれはあっという間にニュー・オーダーになってしまうんだ。ヴォーカルをとってしまうと全然そうは聴こえないんだけど…」

 「バーナードがベストなシンガーじゃないってことはみんな知ってるさ。でも彼はユニークだし、自分自身のスタイルを身につけてるよ」とマーテインが説明するのを待つまでもなく、バーナードはかつて言われたように、"無個性な“ヴォーカリストなどではまったくない。彼の声は、この曲にメランコリックな陰影を与えている。

 4曲目の「Qマート」と7曲目の「000PS」でヴォーカルをとるのは、アイスランドのちょっと風変わりなバンド、シュガーキューブスのコケティッシュな女の子、ビョークである。シュガーキューブスのサウンドは、およそハウスには無縁っぽいし、バンドのメンバーもインタヴューで「ハウスをとり入れることはありえないだろう」と語っているので、ビヨークが808ステイトのファンだったというのはちょっとした驚きではあった。彼女は808ステイトのオフィスに「あるアイスランドの女の子が808ステイトとの共演を望んでいる」とだけ伝え、シュガーキューブスの名を全く出さなかったという。ビョークは最初、ソロ・アルバムを作るつもりで808にコンタクトをとってきたらしいが、とりあえずはこの2曲のみになったようだ。ちなみにマーティンは「バースデイ」は好きだが、グラハムは、シュガーキューブスをあまり好きではないと語っている。いずれにしても、あのこぶしをきかせるビョークの独特の唱法は、ここでも変わることがない。

 以前に共演の噂があったモリッシーといい、今回のこの2人といい、ヘタをすれば主役を食ってしまいかねないゲストをあえて迎えてしまう808ステイトは、何と自信に満ちあふれているのだろう。彼らにとっては"ヴォーカルもひとつの素材にすぎない”んだろうけど…。

 サウンド的におもしろいのは、前作のサクソフオーンにかわって、今回はトラディショナルな楽器としてエレクトリック・ギターがフィーチャーされていることがある。6曲目の「リフト」は、流麗なストリングスとピアノがムーディーな曲だが、その中間部で突然ギターが金切り声をあげるのだ。この曲は、僕の手許にあるデモカセットでは「Guitar」という単純明快なタイトルになっている。また、10曲目の「キュービック」のハード・ロック風ギターは、もうシングルでもおなじみだと思う。

 このアルバムの裏ジャケットには、彼らの使用器材がまとめて掲載されている。それを見て驚くのは、そこにはこれと言って特筆するような器材はほとんどないということだ。日本でだって、少しマニアックなテクノ小僧なら持ってるようなものばかりだ。結局、音楽とは、ハウスとは、テクノロジーに頼るのではなく、それをいかに使いこなすかという、センス次第なのだということを彼らはここでアピールしているのだろう。また、おなじみのTR808、909の他に、ミニムーグやローランドのSHシリーズ、ヤマハのCSシリーズなどの、アナログ・モノフォニック・シンセが多用されているのも目立つ。デジタル全盛のこの時代にあっても、かつての不安定なアナログにこだわるアーティストは多い。その不安定さが逆に音の暖かみや厚みにつながるのだが、808は以前からそうしたアナログ的な部分にも目を配ってきた。その最初の成果が「パシフィック・ステイト」だったわけだが、この「EX:EL」では、デジタルとアナログの共存が、ひとつの究極的なスタイルとなって結実している。アヴァンギャルドでありながらオーセンティック、ノイジーでありながらピュア、そんな排反する要素が拮抗しながら、ひとつの理想を生み出す――それがこの「EX:EL」なのだ。

 それにしても、このアルバム全曲を通して流れるこのここちよさは、いったいどう表現したらよいのだろう。「ナインティ」にもあった、フィージョン的な肌ざわりのよさを持つサウンドは、よりなめらかさを増し、ほのかな色気すら漂わせる。

 先日、テレビで放映されていたスキーのワールドカップ大会で、BGMで808ステイトの「キュービック」が使われていたが、彼らのサウンドは、ある意味でサウンドトラック的な要素も持ちあわせているのではないだろうか。この「EX:EL」には、何か映像的イメージを喚起するある種のパワーが確かにある。先にアレックス・パターソンが言ったように、優れたハウスにはそうした力が宿っているものなのだろう。

 しかし、この「EX:EL」は、もはやそうした“優れたハウス”というカテゴリーを超えている。ここに内包されたXLサイズの強大なパワーを前にしては、もはやカテゴライズなど何の意味も持たない。ここには「踊ることもでき、聴くこともでき、無視することもでき、瞑想に導くこともできる」音楽があるのみなのだ。


 808ステイトは、あらゆる情報をとり入れながら、その創造力をふくらませつづけている。彼らが行きつく果てがどのようなものなのかそれを見ることは、この時代に生きる我々にのみ許された特権なのだ。

[1991年3月 杉田元ー]

1990年12月21日金曜日

The Shamen 「EN-TACT」


 80年代の終わりから90年代にかけてのイギリスの音楽シーンでもっとも顕著だったのは、いわゆるインディ・ロック(死語?)とアシッド・ハウスの融合だったというのは多くの人が認めるところだと思う。ハッピー・マンデーズ、ジーザス・ジョーンズ、ストーン・ローゼズ、プライマル・スクリーム、ビーラヴドなど、多くのバンドがクラブ・サウンドに目を向けるようになったのは、死に体にあったイギリスのシーンにとっては幸いなことだったはずである。

 ただし、彼らとて、ハウスに接近したとはいえ、やはり未だにロックという文脈(コンテクスト)から完全に逃れるまでには至っていない。売れっ子ミキサーによるクラブ・ヴァージョンを造り出していくのがせいぜいであり、コンサートにしてもライティングに少し凝るくらいで、基本的にはあまり変化がないというのが実情だ。それが悪いとは言わない。ただ、もっと別のやり方――それも極端な――もあるということである。

 それを、シェイメンは実践した。彼らはロックというノスタルジアに拘泥することなく、そのコンテクストから軽々と飛翔してみせた。その結果産み出されたこのアルバム『EN-TACT』―これこそ、サイケデリアとハウスが生んだ鬼っ子なのである。

 シェイメンの母体となったのは、スコットランド東北部、アバディーンで結成されたアローン・アゲイン・オアというバンドだった。メジャーのポリドールと契約していたこのバンド(グループ名は60年代サイケ・グループ、ラヴのアルバム『Forever Changes』の中の1曲からとられた。)は、85年に解散し、その中心メンバーだったコリン・アンガス(vo,g)、デレク・マッケンジー(b)、キース・マッケンジー(ds)が同年、シェイメンをスタートさせたのである。バンド名のShamenは、メンバーによると、Shaman(シャーマン――呪術師のようなもの)のミス・スペルであるらしい。「それはジョークであり、パロディでもあるんだ。現代社会におけるポップ・グループの役割のね」(デレク)

 シェイメンのレコード・デビューは86年4月。インディ・レーベル、One Big Guitarから登場した「They Might Be Right/......But They're Certainly Wrong」と題された3曲入り(Happy Days他)のシングルが彼らの記念すべきファースト・シングルとなった。

 次いでシェイメンは、自分達のレーベル、MOKSHAを設立、そこからセカンド・シングル「Young 'Till Yesterday」を同年11月リリースした。このセカンド・シングルから新たにキーボーディストとして、ピート・スティーヴンソンが加入している。翌87年5月にサード・シングル「Something About You」が発表されたのを受けて、6月にはいよいよファースト・アルバム『Drop』がリリースされた。プロデューサーには、キュアーやスージー&ザ・バンシーズを手がけたマイク・ヘッジスの名も見える本作は、全12曲中6曲がシングル発表曲で、全体のサウンドもそれらのシングルの延長線上にあるものである。それは、フォト・コラージュを配した、幻惑的なレコード・ジャケットからもうかがえるような、ひんやりと暗く、歪んだトリップ感覚をたたえた、まさしくサイケデリックとしか言いようのないサウンドであった。実際、このころのシェイメンは、シングルのB面などで積極的にシド・バレットや13thフロア・エレヴェイターズなどの曲をカヴァーしていて、自らをネオ・サイケデリアの旗手として認めていたふしもある(Imaginary Recordsから出たシド・バレットのカヴァー・アルバム『Beyond The Wildwood』に「Long Gone」を提供してもいる)。そして、彼らの書く詞は、極めて政治的であり、このポリティカルな姿勢も、シェイメンの音楽のポイントにもなっていたのである。

 このポリティカルな姿勢は、ある事件をひき起こすことになった。このファースト・アルバムに収録されている「Happy Day」が、スコットランドのMcEwan Lagerと言うビール会社のTVコマーシャルに使われる予定であったが、その内容が余りにもあからさまなサッチャー批判だったため、バンドは前金の支払を受けていたにもかかわらず、その契約を破棄されてしまうという事件である(まあ、彼らの曲がコマーシャルで使われるという事実も、恐ろしいものがあるが)。

 サイケデリックといえばドラッグ、というふうに結びつけるのは短絡的かも知れないが、当時のシェイメン・サウンドは、ドラッグがもたらす意識の拡大と言った感覚を確かにもたらしてくれるような気がする。メンバー自身、そのような目的の為にドラッグを用いるとも語っているし…。ちなみに、彼らのレーベルMOKSHAは、メスカリンの人体実験のもようを記した「知覚の扉」で知られるオルダス・ハクスリーの、幻覚体験や神秘体験、幻覚剤などについて記した文章を編集してまとめられた「モクシャ」という本のタイトルからとられている。「モクシャ」とは「解脱」を意味するサンスクリット語で、ハクスリー最後のドラッグ・ユートピア小説「島」では、島民の幸福を支える重要な薬物に「モクシャ」という名がつけられているのだ。

 さて、ファースト・アルバムのリリース後、ベースが、デレクからウィル・シンノットに代わる。ウィルはグラスゴー出身で、アバディーンで精神病院の看護夫をしていたという。彼が巡回する病院の一つで、コリンが働いていたことから二人は知り合ったらしい。このメンバー・チェンジと前後して、バンドの方向性に変化が起こる。コリンがヒップ・ホップを聴いて衝撃を受け、「ロックンロールはもはやそこにいるべきではない」と考え、新加入のウィルも「真のエキサイトメントは、新しいテクノロジーを使うことにより、ダンス・ミュージックの領域内で起こるだろう」として、結果としてシェイメンは、打ち込みのマシン・ビートへの接近を見せ始めたのである。87年10月に出たシングル「Christpher Mayhew Says」は、そんな彼らの新しい方向性を打ち出していたし、続いて翌88年2月にリリースされた「Knature of a Girl」(ビートニク詩人のアレン・ギンズバーグに捧げられている)は、ますます覚醒感を強めた、炸裂するビートがうねりをあげる傑作だった。だが、そうした方向性に疑問を持った、キースとピートは遂にバンドを脱退、シェイメンはコリンとウィルのデュオ形態となって再出発するのである。

 88年6月には、6枚目のシングル「Jesus Loves Amerika」をリリース。これはEDIESTから発売された。本作はアメリカのTV伝導師の説教をサンプリングして使っており、またこれにあわせて郵便局の無料伝導メイル「ジーザス・イズ・アライヴ」に反発した「ジーザス・イズ・ア・ライ(キリストは嘘つき)」という名目のツアーを行なったりして、一部からは悪魔を礼賛するグループと非難されたりもしたシェイメンだったが、間にイタリア Materiali Sonori から出たコンピレーション『Strange Day Dreams』(シングルB面、ライヴ・トラックを含む全10曲)をはさんで、翌89年初めにセカンド・アルバム『In Gorvachev We Trust』を、今度はDemomからリリースする。だが、その前に一つの問題作がリリースされていたのである。88年11月に出された「Transcendental」がそれ。Desireレーベルから出たこのシングルのクレジットは、"Shamen vs Bam Bam"となっている。90年夏には同レーベルからフル・アルバムもリリースしているBam Bamはシカゴのハウス・ミックス・マスターで、彼の手になるこのシングルはもう完膚なきまでのハウスであり、ファンの間でも賛否両論を呼んだものだ。このシングルを作った時のことを、ウィルは次のように回想している。

 「アシッド・ハウスは、サウンドとフリケンシーを同じパターンの連続の中で変化させる。それを、メロディアスな構造の中で成しとげるのは、大きな矛盾をはらんでいるんだ。僕達の曲はメロディアスだから……本当、途方にくれたもんさ」

 スコットランドからロンドンに移り住んだシェイメンが、試行錯誤をくり返しながら作りあげたセカンド・アルバムは、その衝撃的なアルバム・タイトル(今さら言うまでもなく"In God We Trust"のパロディ)とジャケット(いばらの冠をつけたゴルバチョフ――ジーザス?――の顔めがけてアメリカ空軍の爆撃機が突っ込もうとしている)にもかかわらず、高い評価を得た。そして彼らは、このアルバムの売り上げと、それに伴うツアーの収入で、シンセサイザーやサンプラー、シーケンサーなどを買いそろえていったという。

 続いて89年3月、その後のシェイメンと深く関わることになるミキサー、"Evil"エド・リチャーズを迎えてシングル「You Me & Everything」、そしてミニ・アルバム『Phorward』を再びMOKSHAからリリースした。後者は旧作を含む完全なリミックス・アルバムで、彼らがいよいよ本格的にハウスに取り組み出したことを物語っていた。

 シェイメンの前進は、この年の夏に、シュガーキューブスで有名なワン・リトル・インディアンに移籍したことでさらに着実なものとなる。10月にOLIからのデビュー・シングル「Ωアミーゴ」をリリース。これはシェイメン本来のメロディアスな要素とパルシヴな要素が絶妙にブレンドされた好作品で、続く「プロゲン」(90年3月)も同路線のシングルで好評を得た。その後「プロゲン」の別ミックス(リミキサーには今をときめくポール・オークンフォルドやベン・チャップマン、そしてミュート所属のレネゲイド・サウンドウェイヴ――シェイメンは彼らの「コカイン・セックス」を聴いて衝撃を受けたと語っている――を起用)をリリース、次いで9月に「Make It Mine」とそのリミックス盤を経て、いよいよ本国イギリスでは10月にサード・アルバム、そして日本では彼らのデビュー作となる「EN-TACT』の登場となるのである。

 OLIに移籍してからのシェイメン・サウンドは、あのひきつった痙攣ビートにかわって、よりふくらみのある、ポジティヴなひびきを獲得したように感じられる。それゆえ、かつてのシェイメンの特徴だったカオティックでポリティカルな歌詞も、人々の集合意識やポジティヴな心の動きを賞賛するものへと変わってきたようだ。その上で、この『EN-TACT』は、快楽原則にのっとって造られた、パーフェクトなハウス・アルバムなのである。そう、シェイメンは今や"ロック"とは完全に訣別したのだ。

 「我々は、自分達のしていることを最もうまく表現するために、独自のコンテクストを創ろうとしている。ロックのコンテクストの中では何もできないからね」(ウィル)

 彼らは、アルバム制作中に新しい試みを行なった。"Synergy(シナジー)"と名付けられた、移動式のクラブ・イベントである。今年2月に、ロンドンのタウン&カントリーを皮切りに始まったこのショウ・パッケージ・ツアーは、1回5~6時間にもわたってライヴ、DJショウ、ライトショウなど、様々なアクトを盛り込んだものだ。

 「シェイメンはコンサートをやるのではなく、イベントを行なうのさ。我々はトラディショナルなロック・ギグのフォーマットから完全に離れようとしているんだ。我々は、ロック・ギグを、クラブでのそれにするよう努力してるんだよ。"シナジー"は、我々がプレイするところではどこでもひとつの小宇宙が形成されるという、我々の夢を実現させるためのもの。我々はやがて人々にとっての“もうひとつの(alternative)現実"を生み出すだろう。ドリーム・マシン(シンクロエナジャイザーのようなマシン)みたいなエレクトロニック・メディテーショナル・エキップメントを使ったりしてね」(コリン)

 「将来、もし我々が、ドリーム・マシンが個人に与えるのと同じ刺激を聴衆全員に与えられるライティング・テクノロジーを享受できれば、個人の「仮想現実(Virtual Reality)」を全体に連動することができるようになるだろう」(ウィル)

 シェイメンは、60年代のサイケデリア達が行なった、薬物によって自らの精神的自由を拡大していくアプローチを、メディア・テクノロジーによって実現しようとしているのだ。それは、かつてウィリアム・バロウズが指摘していたことなのである。

 「我々はサンプラーやコンピューターが、音楽のまったく新しい傾向を開拓したと考えている。あらゆる音楽創造の可能性は、今やテクノロジーにゆだねられているのであり、聴き手はそこにマッチするイマジネーションを探せばよいのだ」(コリン)

 3枚のシングルのタイトル・トラックを含む前半こそポップともいえる要素を持っている(元々シェイメンの曲作りのうまさには定評がある)このアルバムだが、あのジャー・ウォブルがベースを弾く9曲目の圧巻な「Evil Is Even」から、808ステイトのグラハム・マッセイがミックスした「Human NRG」を経た後半5曲は、アンビエントとも形容される、とてもオーガニックなサウンドをきかせている。そこには、ロックという枠組みから解き放たれたシェイメンの、自身の小宇宙への飛翔の姿が映しだされているのだ。


 コリン・アンガスとウィル・シノットは、本当に現代のシャーマンなのかもしれない。

[1990年10月 杉田 元一]