1992年5月28日木曜日

T-99 「ANASTHASIA」 1/2


■僕とテクノ・ハウスとの出会い
 それは去年の7月に渡米しニューヨークを訪れた時でした。
目的はニュー・ミュージック・セミナー参加の為にでしたが、
夜になると血が騒ぐ僕は
改装しリフレッシュ・オープンしたクラブの"ライムライト"に行きました。
西暦2000年のディスコをイメージにした
「DISCO 2000」というスローガンの大きな幕を真上に貼った
ダンス・フ口アーの中では、「ビュン!ビュン!」
「ビョオーン!ビョオーン!」というノリの良い電子音の洪水だった。
その電子音の洪水の中で
白人のたくさんの2000人ぐらいの若者達がグシャ、グシャになって踊っているのです。
ゲイ・ピープルもたくさんいて日本では考えられない異様な雰囲気の中で
僕の目は点になり、頭の中は真っ白になっていました。
古くは70年代の"12・ウエスト""アイス・パレス"などにはじまり、
ニューヨークのゲイ・ディスコは何軒もみてきた僕だからその光景に驚いたのではない。
(但し、僕はそのケはありません!)
僕が衝撃を受けたのは、その圧倒的なグルーヴ感を醸し出す
電子音のダンス・ミュージックの数々です。
正確に言うと目が点になっていたのではなく耳がビーンと立ちっぱなしになってしまったのです。
僕は数日後、再びライムライトを訪れました。
また、電子音のグルーヴ感でトリップしてしまった僕。
気が付いた時は4時間たっていました。
 日本に帰ってきてから、数ヶ月後、
あのライムライトで聞いたような輸入盤レコードがたくさん入ってきた。
回りの人達は、それをテクノ・ハウスと呼ぶようになった。
そして、テクノ・ハウスは大変な大ブームになってしまいました。
世界的に見た場合、大ブームの口火は誰か?というと、
808ステイトが「オレ達が昔やっていた古い音楽じゃないか」と言いだしたりして、
誰が一番最初かという判断は難しいが、日本の場合はハッキリしている。
日本での大ブームの発火点になったのは、間違いなく、T-99の「アナスタシア」です。

 この動きを大きく解釈したアメリカのダンス・ミュージック雑誌である
「DMR(Dance Music Report)」誌は、遂に、1991年12月5日~12月18日号から
"TOP 50 TECHNO″というテクノ・ハウスのチャートの掲載をスタートしました。
これは、オフィシャルな初のテクノ・ハウスのチャートとなりました。
この初のテクノ・チャートの第1位はN-JOIで、T-99は第5位にランクされています。
このチャートのスタートがもう4ヶ月早ければT-99が第1位になっていたでしょう。

■テクノ・ハウス震源地のベルギーでは……
 テクノ・ハウスは現在、世界中で制作されています。
イギリス、ドイツ、イタリア、オランダ、アメリカ、日本、etc……。
 その中でもヒット曲が多いのはベルギーです。
T-99を筆頭にクアドロフォニア、2アンリミテッド、CUBIC22などなと………。
人口が1000万人しかいないこの国から、
どうして、世界中を熱狂させる大ヒット曲が続くのでしょうか?
 つい先日、クアドロフォニアが来日した際に、
僕はクアドロフォニアのメンバーであるラッパーのリブ・マスターにインタビューしました。
(このクアドロフォニアのメンバーの中には、
T-99のメンバーでもあるパトリック・デ・マイヤーとオリバー・アベルースがいます。
残念ながら2人とも今回は来日していませんでした。)
 僕が「今、テクノ・ハウスのブームで世界中がベルギーに注目しているけど、どう思う?」と聞くと、
彼は「確かに、世界的なブームになっているけど、
昔からベルギーでは堅い音が好まれる傾向があったんだ。
僕達ベルギーの連中にしてみれば
"なにを今更………オレ達は何年も前からやってるんだよ"って感じだね」と答えた。
なるほど、ベルギーでは古くからロックなどでもテクノ系の電子音楽が盛んな国であったために、
現在のテクノ・ブームに対しても
「オレ達がすっと昔からやっていた音楽なんだ」という揺るぎない自信を彼から感じました。
逆に、現在の大テクノ・ブームに困惑しているという印象でした。
さあ、それでは、いよいよ、T-99について御紹介しましょう。

■T-99について
 テクノトロニック、クアドロフォニアのプロデューサーとして有名な
パトリック・デ・マイヤーは1988年にスタジオ・プロジェクトとしてT-99をはじめました。
ファースト・シングルの「INVISIBLE SENSUALITY」をリリース。
その後も「SLIDY」と「TOO NICE TO BE REAL」などのシングルをリリースしましたが、
いずれも大きな成功に結びつきませんでした。
T-99に大きな変化がおきたのは1991年にクアドロフォニアのプログラマーである
オリバー・アベルースが参加してからです。
コンピューター・キッズであり、特異なプログラマーとして活躍中の彼が加入した
新生T-99のファースト・シングル「アナスタシア」は
異常な人気でヨーロッパ各国でチャート・インを果たし、
特にイギリスのナショナル・チャートでは第2位を記録しました。
さらに、アメリカのクラブ・チャートでも大ヒットを収めました。
この成功により、1991年6月からT-99は本格的なステージ活動をはじめました。
ゼノンというランパーと3人のヴォーギング・アーティストで構成されたグループは
イングランド、スコットランド、スペイン、
イビザ、ドイツ、フランス、ベルギーなどのヨーロッパ諸国をツアーしています。
 1991年9月にセカンド・シングル「ノクターン」をリリース。
この時に、レベッカという新しいヴォーカリストがグループに加入しています。
 この中で注目したい人はオリバー・アベルースです。
パトリック・デ・マイヤーも勿論、注目の人ですが、
新しいタイプの音を作るプロデューサー、コンピューター・ミュージシャンとして
今後のオリバー・アベルースがどのように動くのかは僕にとって非常に興味深いことです。
オリバーは14才の時からDJをはじめ、コンピューター科学を学んでいます。
趣味はコンピューター・ゲームという根っからのテクノ人間です。
リブ・マスターに「オリバーは、どういう人なの?」と聞いたら次のように答えてくれました。
「オリバーは一言で言うと物静かな奴なんだ。自分の世界に入りこんでいるんだ。
だから、彼をよく知らない人は難しく思うだろうな」。
 オリバーは天才なのかも知れません。
それは、アルバムの中の彼が作った翔んでいる音を聴くと納得できるでしょう。
それではアルバムを聴きましょう。

■このアルバムの中について
 御馴染みの超大ヒット曲「アナスタシア」は説明の必要がないでしょう。
セカンド・シングル「ノクターン」も「ヨシ!」としましょう。
他にノリの良さては「ガーディアック」がいい。
リズム体とラップの挑戦的なノリと「アナスタシア」の延長上のアレンジがボディに響きます。
他の曲でもノリの良いラップが入っているのは
パトリック・デ・マイヤーのコーディネイトだと思います。
その他の無機質な素の音源で作ったリズ厶体や
何かをイメージして作った幻想的なアレンジはオリバーの素顔を見た思いがします。

17 APL. 1992
松本みつぐ(赤シャツNOTE)

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