1992年5月27日水曜日

オー・ボニック「デス・テクノの暴君」



 「TECHNO」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
これは、ある共通の意識を基に作られた音楽を指してそう呼ばれている。
 「テクノ」の語源は、「TECHNOLOGY」=「技術」であるが、
決してベテランミュージシャン達が、
それぞれの技を競い合うというものではなく、
シンセサイザーや電子楽器を基調にして作られた音楽の事を、
誰が決めたものでもなく、そう呼ばれるようになったのである。

 今の時代、特にPOPSやROCKといわれる音楽の中で、
電子音楽をー切使用していないという物を探すのはとても難しいが、
この場合はあくまでシンセサイザーや、
電子楽器を肯定して作られた物でなくてはいけない。
何かの楽器の代用、
あるいはミュージシャンがいないからシンセサイザーを使ったなどという事では駄目なのである。

 さて、この「テクノ」であるが、
これを読んでいる方々の中でとても懐かしく思える人達がいるのではないだろうか。
「テクノ・ポップ」といえばもっと解りやすいかもしれない。
つまり80年代前半に、この日本でも大流行した音楽のことである。
そして「テクノ・カット」なるヘアー・スタイルまで生みだした。
そのムーブメントの台風の目こそが
我が日本が世界に誇れるアーティスト〈YMO〉だったのである。
念のため〈YMO〉を知らないという若い世代の人達の為に説明すると、
坂本龍一、細野晴臣、高橋幸宏といった3人のアーティストによって
1978年に結成されたグループのことで、
その音楽は日本のみならす、イギリス、ヨーロッパ、アメリカなどでも高い支持を受け、
現在まで日本国内の音楽業界に多大な影響を与えてきたのである。
まだ聴いたことがないという人がいるのなら、ぜひ聽いてみて欲しい。
なぜなら〈YMO〉はあなた達の子守歌であり、
この日本の国歌であるから(宗教みたいでゴメンネ)。

 さて、長々と「テクノ」についての説明をしたのには訳がある。
それは、この〈OH・BONIC〉が自分達のサウンドを「ハードコア・テクノ」と呼んでいること、
それから現在のクラブ・サウンドやダンス・ミュージック・シーンの中心が、
再びこの「テクノ」に覆われようとしていることからだ。

 それでは、なぜ今再び「テクノ」なのか!
オリジナル・テクノのルーツから、
その流れを僕なりの体験や推測を交えて分析してみよう。

 「テクノ」のルーツは、その母国といわれているドイツから始まる。
ジャーマン・プログレッシブ・ロックと言われるシーンが形成されていた70年代前半、
現代音楽の知識を電子楽器によって組み替えさせ、
緻密さの中のシンプルなサウンドを生みだしたのが
「ゴッド・ファザー・オブ・テクノ」〈KRAFTWERK〉である。

 1974年にリリースされた3rdフルアルバム『アウトバーン』が世界的ヒットを記録し、
76年『放射能』、77年『ヨーロッパ特急』とリリースを続け、
78年『人間解体』が出た頃には、
すでにそのサウンドはDISCOでも大流行するようになっていた。

 現在のテクノ・ハウスのクリエイター達のほとんどが、
クラフトワークの影響下に生まれたといっても過言ではないだろう。

 ドイツはこれ以降、続々とテクノ系アーティストが出てくるようになる
(古くはD.A.FやDIE KRUPPS、最近ではKMFDMなど)。

 そしてその78年、この日本に〈YMO〉(イエロー・マジック・オーケストラ)が登場するのである。
完全なる〈クラフトワーク〉の影響下にあったにせよ、
東洋的オリエンタルな旋律が海外でも高い評価を受け、
(日本国内での反応は先に触れた通り)
特にニューロマンティック・ムーブメント※前夜のイギリスでは、
そのムーブメントの仕掛け人達〈スティーブ・ストレンジ〉(VISAGE)や〈ミッジ・ユ一口〉
(後にULTRA VOXのリード・ヴォーカルになる)等によって広く紹介され、
ロンドンの最先端CLUBでは、
ニューロマンティック・ファッションに着飾った若者達が夜毎に、
この東洋のコンピューターサウンドで乱舞していたという
(※パンク・ムーブメント以降、NEW WAVEと呼ばれていたシーンの中で、
最も大きな動きをしていたムーブメントで、
〈DURAN DURAN〉などがこのシーンから誕生した)。

 又、イギリス国内からも、「エレポップ」(エレクトロニック・ポップスの略)と呼ばれる
サウンドが。あちこちから聞こえてくるようになり、
(O.M.D、HUMAN LEAGUE、SOFT CELL、HEAVEN 17、etc……)
クラブからDISCOへとまたたく間にテクノ―エレクトリック・ビートが浸透していったのである。

 80年代初期~中期にかけて、DISCOは12インチ・シングルと共に、
よりディスコ向けのサウンドを必要とする様になり、「HI・ENERGY」サウンドが生まれる。

それとは別に、オリジナル・テクノを継承するアーティストとして、〈デペッシュ・モード〉が、
ギ夕-サウンドにテクノロジーを融合することによって
全く新しいダンス・ミュージックを〈ニュー・オーダー〉が奏で、
そのヨーロッパ的なメロディ・ラインを引き継ぎ「ハイ・エナジー」は「ユ一口・ビート」へと変化する。

この辺りでは、<デッド・オア・アライブ〉や〈ペット・ショップ・ボーイズ〉といったアーティスト達が、
あからさまにクラブ/ディスコをターゲットにしたシングルをリリースして、
この日本でも一大ディスコ・ブームが到来する。

 そして「サンプリング」という優れた技術がー連のZTTのアーティスト達を送り出した。
くフランキー・コース・トウ・ハリウッド〉〈アート・オブ・ノイズ〉〈プロパガンダ〉等である。
 同時期、アメリカ大陸では、全く違ったアプローチから、
また新しいダンス・ミュージックが生まれた。
2台のターン・テーブルと1台のディスコ・ミキサーを駆使して、
その上にラップを重ねるといったこのスタイルは「HIP HOP」と呼ばれ、
世界中に猛威を発揮する。
そして更にクラブの黒人クリエイター達は、安物のリズム・マシンをつかい
「HOUSE」という踊るための音楽を作りだすのである
(この時期、初期のクラフトワークの曲や、エレポップの曲などがネタとしてよく使われた)。
 「ハウス・ミュージック」は80年代後半にロンドンに飛び火、
「アシッド・ハウス」が生まれ、人々は更に刺激的なサウンドを求めて
「エレクトリック・ボディ・ミュージック」が急浮上する。
又、アシッド・ハウスから別な流れも派生し「テクノ・ハウス」が誕生する。
「90Sテクノ・レボリューション」である。

 テクノ・ハウスは、よりリラックスできる「アンビエント・ハウス」と、
ベルギー産ボディ・ミュージックを吸収した
「ハード・コア・テクノ」へと二分化する(T99、CUBIC22)。

 ハード・コア・テクノは、イギリス・レイブ(野外パーティー)シーンで一大旋風を巻き起こし、
ヨーロッパ・アメリカへとその威力を発揮(これには〈KLF〉の功績も大きい)。

 スペースの関係上、大まかな流れしか説明出来す、
所々言葉が足りない所もあるが、大体の流れはこういう事である。

 そして「オー・ボニック」登場である。ダンス・ミュージック―テクノの流れを考えれば、
アメリカからこのてのアーティストが出てくるのは当然のことなのである。
しかしながら、当然とは言っても、
オー・ボニックの様なアーティストが沢山いる訳ではなく、
彼等はアメリカ・レイブシーンのパイオニア的存在といえるだろう。

 ニューヨークにあるサウンド・ラボ「ZOO」で作られたそのサウンドは、
テクノのフィーリングを活かしつつ、
更にアメリカの持つダイナミックなエネルギーが注入され、パワー全開に展開されている。
 今後、アメリカからのこういったアーティストは更に増えるであろう。

 70年代後半に誕生した「テクノ」は、様々な文化、歴史を飲み込み、90年代に蘇った。
これから先、ダンス・ミュージックは、よりいっそうテクノヘと向かい、更に加速し続けるであろう。
 日本が「テクノ・サウンド」に覆われるのも、もう時間の問題である。
(クラブDJ 関根信義)

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