1992年12月16日水曜日

L.A.スタイル「THE ALBUM」


L.A.スタイルはディスコの救世主である。
DJにとっても、ディスコ・フリークにとっても‥‥。

(1991年初め、ディスコは死んでいた)

 1980年代中盤までは日本のディスコは
独自の音楽センスで作り上げられていた。
ロックあり、ソウルあり、ポップスありと、
一般の人達の理解できる範囲内でダンス・シーンを作り上げていたのである。
ところが1980年代も中盤を過ぎると、
海外からの情報や12inchレコードが容易に手に入る様になり、
DJ達は特殊な知識を頭に入れながらプレイをする様になる。
DJとしての地位を確立する為にある者はマイナーな音源に走り、
ある者はニューヨークやロンドンのヒット・チャートを
羅列するだけの選曲をしてみたりと、
前提条件(客層、時間、空気)を無視する事が増えていったのである。
もっともそこに拍車をかける様に、雑誌や放送媒体では
RAPやハウスを「今は、この時代」なんて紹介するので、
小心者のDJ達(もっとも僕も足を入れてしまった口だが)は
あたかも自分が世界のダンス・ミュージックの先端を走っていると思い込み、
ダンス・フリーク達の二ーズとかけ離れ始めたのであった。
90年を迎える頃になると俗に言う常連客達も
「やっぱ、今はハウスよね!!」なんて事を言い出したのだから、
ますます店はアングラの方向に進まざるを得ないのだが、
ドラッグや泥酔のない日本のディスコに受け入れられるパワーは乏しく、
DJとディスコ・フリーク達はお互いに「何か必要なのか!?亅が解っていながら
啀み合いの時を過ごしていたのだ。
そんな時、ディスコに於ける暗雲を断つ様に
デス・テクノ~L.A.スタイル~が登場したのである。

(L.A.スタイルとディスコの再燃)

 L.A.スタイル。
オランダ人のミュージシャン&プロデューサーのデンジル・スレミングと
MC(ラップ)のスタンリー・フートのユニット。
仕事でスレミングがロスアンゼルス(L.A.)に行った時、
ナイト・クラブで酔った男が「ジェームズ・ブラウン・イズ・デッド!!」と
繰り返し叫んでいた事にショックを受け、
名作「ジェームズ・ブラウン…」を作った話はあまりにも有名。
 とにもかくにも今のディスコにLAスタイルが作った功績は大きい。
それはダンス・フロアーで現在狂気乱舞されているヒット曲のベースは
「ジェームズ・ブラウン…」であるし、DJはダンス・フリークのニーズを
新しいジャンル(デス・テクノ~L.A.スタイル~)で提供できた事もそうだ。
「もしこの曲が日本に紹介されていなかったら、今ディスコは?」
なんて考えると身の毛がよ立つ思いに駆られる。
そしてこのデンジル・スレミング(L.A.スタイル)という男、
これからも常にとんでも無い事を考え出して、
世界にショックを与え続けるのだろうな。

DJ&FM番組制作 中根"POPPO"康尋

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