1992年12月16日水曜日

Urban Hype 「Conspiracy to Dance」

 


 今、ロンドンのクラブ・シーンは恐ろしく複雑化している。例えば週末にクラブに行こうと思ったとしても、自分の好みにあった曲をかけてくれる店にめぐり逢えるまでに何軒もはしごして、結局それを見つけられないまま、朝になってしまうかも知れない。レイヴに行くような人達や、黒人などの間では、倍速のブレーク・ビーツとヘヴィなベースが特徴の「ラガ・テクノ」または「ブレイクビーツ・テクノ」が人気だし、わりと裕福でトレンド好きな人は、バレアリックの流れを汲む「プログレッシブ・ハウス」を聴いている。家でも聴けるようなディテールに凝ったトランシーな音は「インテリジェント・テクノ」なんて呼ばれてるし、ドイツ、ベルギーの硬質なハードコア、エネルギッシュなイタロなども健在だ。

 アーバンハイプは、かなり強烈にこの辺の事情を理解しているように思う。いきなり全英トップ5にランクインし、クラブだけでなくポップスのフィールドでも話題をさらった「トリップ・トゥ・トランプトン」は、表面的には高速ブレークビーツを強調したレイヴ・チューンなのだが、音の洗練のされ方や、曲の途中でピアノのブレークが入り、曲調ががらっと変わるところなどに、ハードなだけに終始しない、彼らのしたたかなポップセンスが伺える。実は、この「トランプトン」というのはこども向けのテレビ人形劇のタイトルで、途中で出てくる変な歌は、登場人物の名前を連呼する主題歌からのサンプリングだ。この手の洒落は、イギリス人の得意とするところで、ハウス系でもFABの「サンダーバード」とか、プロディジーの「チャーリー」とか、数え出すと結構出てくる。今一番記憶に新しいところでは、スマートE'ズの「セサミストリート」が思い浮かぶが、あれは原曲をそのまま頂いてて、売らんかなの姿勢がミエミエでやな曲だった。こういう、心無い盗人達のために、アーバン・ハイプまでもが、一部の人達の間で『子供だましのカートゥーン・テクノ』とくくられてしまったのは残念なことだ。しかし、このデビューアルバムで、そんな悪評は一気にふっ飛んでしまうことだろう。今のところ、手元には10月に出たシングル「ザ・フィーリング」の音しかないのだが、これを聴く限り、「トランプトン」とは全く違う世界が展開されており、どちらかと言うと、プログレッシブ・ハウスに近い音で面白い。恐らくこれは、彼らの原盤をリリースしているフェイズ2レーベル(ロザーラなどの所属するパルス8の下部レーベル)のカラーに、より近いのではないだろうか。フェイズ2の音は、気持ちの良いハウス・ビートを主体にしながらも、あらゆる種類の音楽を取り込んで、幻想的なグループを作り出している。(最近のヒットでは、INTUITIONの“DANCE WITH ME”が素晴らしく良かった。エイベックストラックスよりリリースされているので是非聴いてみてほしい。)その他にも、幻のデビューシングルに収められていた「テクノロジー」という曲も入っているし、アンビエント・テイストの曲もあると言うことで、アーバン・ハイプのすべてが分かる決定版と呼んでも差し支えないようなアルバムになっている。

 アーバンハイプは、ボビーDと、マーク・ルイスという2人のユニットだ。「トリップ・トゥ・トランプトン」のビデオで見たことのある人も多いかと思うが、SFチックな衣裳に身を包み、いかれた痙攣ダンスをする彼らの姿は、テクノ狂以外の何者でもない。実際、「トランプトン」のスリーブには、尊敬の念を示すとして、シェイズ・オブ・リズム、GTO、ベルトラム、リアクト2リズム、などの名前が挙げられている。いずれも現在のテクノ・シーンをリードしているアーティスト達だが、この顔触れには、彼らの音を匂わせるところが少なからずあるので、「ウ~ン、そうか」とうなずける人も結構いるんじゃないかな。特に、シェイズ・オブ・リズムという名前には注目すべきだ。彼らは、N-JOY、シェイメンなどと並んで、ライブを重視するテクノ系アーティスト達の間では神格化された存在なのだ。ということは、やはりアーバン・ハイプも、ライブに力を入れているということだろう。資料によれば、アーバン・ハイプは、「トランプトン」がヒットする前から既に、レインダンスやアムネシアといったレイヴを始めとして、イギリス中のクラブ/レイヴをツアーして回っていたらしい。以前は、テクノはライブ出来ない、またはやっても意味が無い、みたいな事が半ば常識的に言われていたが、今や、それは覆され、第一線で活躍するアーティストの大半がライブを精力的に行なっている。逆に言えば、ライブもできず、自己完結してしまっているような奴にはヒットする曲は作れないってことかも。プロディジーだって、ユタ・セインツだって、プラガ・カーンだって、ALTERN 8だって、アンダーグラウンド・レジスタンスだって…世界中の未来派電子音楽作家達は、既にDJの叩き出す永遠の反復ビートに天国状態になっているダンサー達を、自分達の曲で更なる高みに連れていこうと、日夜クラブやレイヴのステージで戦っているのだ。アーバン・ハイプのステージは、見たことが無いのでどんなものなのか分からないが、「トリップ・トゥ・トランプトン」の麻薬のようなリズムが精製された現場であることは、間違いないだろう。

 いずれにしても、彼らが今後日本でも大きくなっていくのは、ほぼ確信できる。このCDを手に取ったとき、あなた自身も半信半疑だったとしても、今は、自分の選択眼に自信を持っていいと思う。まだまだ、この手の音を大音量でかけてくれるクラブが日本には少ないのが残念だが、アーバン・ハイプの作り出すめくるめくビートに腰を思いっ切り揺らして、その快感にレイヴの匂いを感じて欲しい。そのうち、生の彼らを見られる日もやって来るかも知れないぞ!

(KEN=GO→)

L.A.スタイル「THE ALBUM」


L.A.スタイルはディスコの救世主である。
DJにとっても、ディスコ・フリークにとっても‥‥。

(1991年初め、ディスコは死んでいた)

 1980年代中盤までは日本のディスコは
独自の音楽センスで作り上げられていた。
ロックあり、ソウルあり、ポップスありと、
一般の人達の理解できる範囲内でダンス・シーンを作り上げていたのである。
ところが1980年代も中盤を過ぎると、
海外からの情報や12inchレコードが容易に手に入る様になり、
DJ達は特殊な知識を頭に入れながらプレイをする様になる。
DJとしての地位を確立する為にある者はマイナーな音源に走り、
ある者はニューヨークやロンドンのヒット・チャートを
羅列するだけの選曲をしてみたりと、
前提条件(客層、時間、空気)を無視する事が増えていったのである。
もっともそこに拍車をかける様に、雑誌や放送媒体では
RAPやハウスを「今は、この時代」なんて紹介するので、
小心者のDJ達(もっとも僕も足を入れてしまった口だが)は
あたかも自分が世界のダンス・ミュージックの先端を走っていると思い込み、
ダンス・フリーク達の二ーズとかけ離れ始めたのであった。
90年を迎える頃になると俗に言う常連客達も
「やっぱ、今はハウスよね!!」なんて事を言い出したのだから、
ますます店はアングラの方向に進まざるを得ないのだが、
ドラッグや泥酔のない日本のディスコに受け入れられるパワーは乏しく、
DJとディスコ・フリーク達はお互いに「何か必要なのか!?亅が解っていながら
啀み合いの時を過ごしていたのだ。
そんな時、ディスコに於ける暗雲を断つ様に
デス・テクノ~L.A.スタイル~が登場したのである。

(L.A.スタイルとディスコの再燃)

 L.A.スタイル。
オランダ人のミュージシャン&プロデューサーのデンジル・スレミングと
MC(ラップ)のスタンリー・フートのユニット。
仕事でスレミングがロスアンゼルス(L.A.)に行った時、
ナイト・クラブで酔った男が「ジェームズ・ブラウン・イズ・デッド!!」と
繰り返し叫んでいた事にショックを受け、
名作「ジェームズ・ブラウン…」を作った話はあまりにも有名。
 とにもかくにも今のディスコにLAスタイルが作った功績は大きい。
それはダンス・フロアーで現在狂気乱舞されているヒット曲のベースは
「ジェームズ・ブラウン…」であるし、DJはダンス・フリークのニーズを
新しいジャンル(デス・テクノ~L.A.スタイル~)で提供できた事もそうだ。
「もしこの曲が日本に紹介されていなかったら、今ディスコは?」
なんて考えると身の毛がよ立つ思いに駆られる。
そしてこのデンジル・スレミング(L.A.スタイル)という男、
これからも常にとんでも無い事を考え出して、
世界にショックを与え続けるのだろうな。

DJ&FM番組制作 中根"POPPO"康尋

1992年10月25日日曜日

オーパスIII・フィーチャリング・カースティ 「イッツ・ア・ファイン・デイ」

 

 「イッツ・ア・ファイン・デイ」は一聴して迷わず買ったシングルだった。オーパスIIIというプロジェクト名は初めてみる名前だったけれど、美しく透明なヴォーカリゼーションとバックのテクノ・サウンドが妙にマッチしていて、その何とも形容しがたい魅力に一発で惹かれてしまったのである。

 原曲が1983年にチェリー・レッド・レコードからリリースされたジェーンの歌うアカペラの、日本ではCFにも使われたあれだということはすぐにわかった。が、1992年のヴァージョンは原曲のような、精神と自然との普遍的な情景をアコースティック・サウンドで創出しようとしたチェリー・レッドならではのスタティックな響きとは大いに位相を異にしたものである。1992年のヴァージョンにはダイナミズムがあった。快楽的な味わいがあった。

 オーパスIIIの話に入る前にこのプロジェクトを裏で支える380レコードというプロダクションについて触れておきたい。ここの中心人物がピート・ウォーターマンだということを言えば、多くのダンス・ミュージック・ファンはピンと来るであろう。ウォーターマンはマイク・ストック、マット・エイトケンとともにプロデューサー・チームを組み、80年代のダンス・カルチャーをメジャーな場で先導していった代表的な人物である。このライナーを書いている今、最新号(92年9月号)の英『FACE』誌をパラパラとめくっていたら、たまたまディスコ文化に関する記事に出くわし、そこには80年代の重要なダンス・クリエイターとしてマドンナ、ペット・ショップ・ボーイズ、イエローらに混じって、ストック/エイトケン/ウォーターマンの名が記されていた。「ストック/エイトケン/ウォーターマン、ディスコ・マシーンの彼らはディスコを活性化し続ける・・・」

 ハウスやテクノによって日本でもダンス・ミュージックが注目されているが、そのムーヴメントは80年代の終りに始まったことでは決してない。すでに70年代の終りから、ポピュラー・ミュージックはダンスへと向かっていった。パンク熱が冷えた70年代の終りから80年代初頭にかけて、たとえばロンドンの街を席巻したのはニュー・ロマンティックスと呼ばれた人達だった。デビッド・ボウイやロキシー・ミュージックなどの流れを継承する彼らは、目一杯着飾っては夜な夜なクラブ遊びをして、ダンス・ミュージックを楽しんだ。これが後に英国のジャーナリズムに「ナイト・クラビング」と呼ばれるライフスタイルの原形を作っていったわけだ。

 ナイト・クラビング・カルチャーは、ハイエナジーやユーロビートを支持し、一方ウエスト・エンドではレア・グルーヴなどソウルリヴァイヴァルをも促していった(ちなみにハイエナジーの中心的クラブ<ヘヴン>は後のアシッド・ムーブメントでも重要な働きをした)。こうした状況からレイヴァー(RAVER)が出現してくるわけだが、このナイト・クラビング・カルチャーをメジャーで展開したもののひとつが、かのバナナラマであった。そして、バナナラマのメジャー大ヒットを仕掛けたのがストック/エイトケン/ウォーターマンなのである。ナイト・クラビングのロマンスを、この3人はメジャー・シーンで表現することに成功したのだった。

 話は少しそれるが、ハウス・ミュージックをロンドンで真っ先に支持したのがニュー・ロマンティックス(ハイ・エナジー)の連中で、また、イビサ島へ赴き遊び惚けて、最初にバレアリック・ビートの虜になったのも彼らだった。この流れと、ウエスト・エンドから来るソウル・ウィークエンダーズ(レア・グルーヴ)の熱狂、それからデトロイトからのテクノなどが入り交じって、88年英国のダンス・ミュージック爆発の通称セカンドサマー・オブ・ラヴは用意されたのである。

 ストック/エイトケン/ウォーターマンは87年からP.W.L.プロダクションを設立する。そしてカイリー・ミノーグやジェイソン・ドノヴァンなどを見出しそれらは見事に大ヒット、P.W.L.はダンス・ミュージックのプロフェッショナルとして不動の地位を築いてしまったのである。

 ちなみに、今年になって解散してしまったThe KLFのジミー・コーティが現在ブルー・パールのユースと80年代半ばに組んでいたディスコ・バンドのブリリアントはWEA在籍時のアルバムで、やはり当時WEAでA&Rをやっていたビル・ドラモンドの計らいから、プロデュースをストック/エイトケン/ウォーターマンに依頼している。ところが、それなりに売れたこのアルバムはしかし3人に払ったプロデューサー料より売り上げが低かったために、結局ブリリアントは長く続かなかったわけである。まあ、それでもビルドラモンドはインタビューでストック/エイトケン/ウォーターマンのことを高く評価していたのだから、この3人の存在はよほど大きなものなのだろう。

 さて、オーパスIIIである。ダンス・ミュージックのプロフェッショナル、ピート・ウォーターマンを中心にした380レコードが92年に放った注目の新人である。これは注目するに相応しい新しい才能であろう。それではオーパスIIIのメンバーを紹介する。

 まずもっとも注目すべきはヴォーカリストのカースティ。ジャケットに映っている彼女の容姿はなるほど今までに出会ったことのない雰囲気を漂わせている。その彼女をバックアップしているのがイアン・マンロウ、ナイジェル・ウォルトン、ケヴィン・ドッズ。

 「イッツ・ア・ファイン・デイ」はもともとはこの3人で、原曲に打ち込みを加えたものとしてプレイしていた。が、それならいっそヴォーカリストを入れてカヴァーとして演った方がいいということでカースティをスカウト、オーパスIIIが生まれた。ところで、カースティとの出会いのエピソードが面白くて、3人のメンバーがロンドンの北、ハートフォード州の森で、小鳥の声をサンプリングしている時にハーブを摘みに来ていたカースティと偶然出会ったというのだ。カースティは作曲家のアラン・ホークショウの娘で、少女の頃からクラシックの教育を受けていたそうだ。父アランの名は今作でもコンポーザーとして記されている。

 デビュー・シングル「イッツ・ア・ファイン・デイ」は見事にナショナルチャートの一位に輝いた。僕は冒頭に、この原曲をリリースしたチェリー・レッドを「精神と自然との普遍的な情景をアコースティック・サウンドで創出しようとした」と形容したけれど、91年のオーパスIIIのカヴァー・シングルは、繰り返すようだが、そこに躍動感が加わった。躍動感はウォーターマンらがダンス・カルチャーのなかで獲得したものだろうと僕は考えている。大袈裟かもしれないけれど、自然の霊性を満喫すること、体をリズムにのせること、この両者はある意味で非常に近しい行為なのかもしれない。

 セカンド・シングルの「風に語りて」はキング・クリムゾンのファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』2曲目に収録されたものだが、原曲の厭世的で文学的な部分が、それをダンスビートにのせることで、よりスマートに表現できている。原曲の厭世的な雰囲気よりも、うたのモチーフになっている「風」の部分が突出してて清らかでさえあると思う。

 だいたい曲名がいい。「スターズ・イン・マイ・ポケット」「シー・ピープル」「エヴォリューション・ラッシュ」・・・・・・。80年代初頭のチェリー・レッドにはその後エヴリシング・バット・ザ・ガールで成功するトレーシー・ソーンがいたわけだが、今回デビューしたカースティは乱暴な言い方かもしれないけれど、当時のチェリー・レッド周辺(トレーシー・ソーン、モノクローム・セット、フェルト、ベン・ワット、ファイヴ・オア・シックス等々)が指標した詩情を、この1992年のサウンドで表現しようとする存在ではないのか。チェリー・レッドは先に述べたニュー・ロマンティックスとは交わらぬ、ある種の精神宇宙を獲得しようとする動きであった。ジェーンの「イッツ・ア・ファイン・デイ」はアカペラであるがゆえに女性のもつ神秘性と自然観を表現できた。それはナイト・クラビング・カルチャーとは無縁であろうとする意志でもあった。が、ナイト・クラビング・カルチャーは80年代の終りからニュー・エイジ思想と交わり、やがてアンビエント・ハウスなる音楽まで創出してしまう。ナイト・クラビングの側から自然をテーマにした音楽が生まれてしまったのである。オーパスIIIはそれをさらに明確な形で表した。オーパスIIIは対角線上に位置していたナイト・クラビング・カルチャーとニュー・アコースティック・ムーヴメントの、その両者を結ぶ存在のような気がする。カースティは隣の女の子ではなく、どう見ても森のフェアリー(妖精)である。しかもこの妖精は舞う妖精だ。過去のウォーターマンが手がけたアーティストにはこういうキャラクターはいなかった。

 僕が「イッツ・ア・ファイン・デイ」を迷わず買った理由はそういうことである。

野田努


1992年10月21日水曜日

The Prodigy 「‎エクスペリエンス」


THE PRODIGY~ブレイクビーツテクノのポップスター登場。

~ニューウェイヴ・テクノよ、さらば!~
 レイヴ・サウンドトラックがぐうっとハードコア・テクノ主導型に傾くきっかけとなったのは文句なくKLFの「WHAT TIME IS LOVE」のヒットからだろうけど、彼ら自身は登場の時点ですでにハードコア・アーティストとしては失格な、ニュー・ウェイヴ~プログレッシヴ・ロックを引きずった“残党”だったと思うんです(そこが彼らの面白さでもあるんだけど)。彼らって、世が世ならピンク・フロイドとか、フリップ&イーみたいなことやってポップスターになりたかったにちがいない。でも彼らはそんなにストイックじゃなかったし、時代も別に聖人君主なんか求めてなかった。で、彼らはそこに生じるジレンマを数々のラジカルな行動で紛らわしたり、クラバー達のドラッグ好きを逆手にとってCHILL OUT=プログレ・オマージュ活動したり、楽曲の中に、彼らのルーツであろうEL&PやMC5を挿入したり…。

 何かこう、切ないって云うか、やりきれないんだ。モロ手を挙げてさわげないんだよ、ニューウェイヴ・ロックの“残党”が作るハードコアでは。KLFを筆頭としたロック・ノリ・ハードコアのファンが、マッシュルームカットの"残党員"と扇子振り乱し系のボディ・コンシャス軍団にばっくり分かれるのも、好きじゃない。ハードコアは君の過去を引きずって楽しむものじゃない。ハウスの変種なんかじゃない。ハードコアは、君のT-シャツを汗だくにするための、全く昔ながらの“単なるダンス音楽”なんだ。XX思想の香りで、よろしく!ってとこで改めて紹介しよう、エセックスのテクノ・ヴィザード、ライアム・ハウレット率いるプロディジーで、さわげー!

~プロディジーはレイヴ・エイジのアイドル~
 (2NDシングル「チャーリー」の爆発的ヒットについて)『正直、あんなに当たるとは思ってなかった。ちょっとウンザリしてるよ。僕は常にアンダーグラウンドシーンを意識して曲作りをしてるのに、メジャーヒットを出してしまったから、もうアンダーグラウンドとは呼ばれなくなっちゃったんだ』。

 何と云う志の低さ!素晴らしい。メジャーなチャートで健闘するより、自らの立脚するレイヴ・シーンで人気者でいられなくなる事を心配するハウレット君は20才の正真正銘レイヴ・エイジ、アンダーグラウンドなら任せろってフリして、チャート・セールスに有効な国内売上を伸ばす為に初回プレス分を輸出ストップさせるKLFおぢさんズとは、思考の原点が違うよな。もう何度も云ってる事だけど、ロバート・ジョンスン。彼はもの凄く偉大なブルーズ・ミュージシャンだけど、果たして、『後世に残る、素晴らしい黒人演奏家になろう』と思っていただろうか。答えはメイビー・ノー、だろう。偉大な人もそうでない人にとってもセールスはフトコロを潤す大事な要素だけど、音楽衝動の発端と云えば何と云っても自分の目の前でさわいだり、泣いたり踊ったりしてくれるクラウドからのレスポンスだと僕は思う。そう云う点からみればハウレットの志の低さが現代英国流舞踏会、レイヴ・バーティーを活気づけているのは確かだと思うし、ハウレット君てじつは、すごくミュージシャン・シップに富んだ男の子だと思うんだけど。
 では、ハウレット君=プロディジーがレイヴ人気者になるまでの背景を追ってみよう。エセックス生まれのハウレット君は幼い頃からクラシックの勉強をするピアニストだったけど、イギリスにラップが上陸するとすぐさま反応、CUT TO KILLと云うラップ・チームのDJになるが、その暗いメッセージの数々に幻滅。抬頭していたレイヴ・シーンに触発され、サンプラー、シークェンサーを購入しハードコアをオタクで作りはじめる。'91年2月リリースの1STシングル『WHAT EVIL LURKS』はハードコア賛歌としてレイヴ・シーンで圧倒的な支持を受け、続く『CHARLY』では、イタリアでのポップスターなみの支持のあおりを受け、プリ・リリースからトップ40入り。ラップ・チーム時代の経験をフルに発揮したブレイクビーツ・テクノの(早くも)クラシック、『EVERYBODY IN THE PLACE』(4曲入り)は発売2週目でナショナルチャートの2位を獲得。
 すっごいですねえ。キーボード類を買ったのが89年の12月で翌年2月にいきなりデビュー。そして、うなぎのぼりのレイヴ・スター。何故こんなにも短期間で大きな成功をものに出来たのかと云えば、レイヴ・パーティーには不可欠のライヴ・パフォーマンス(レイヴP.A.と呼ばれる)でレイヴァーを中心としたファンを着実につかんでいったからに他ならない。ライヴではハウレットの繰り出すハード・ビートに合わせてダンス担当のリロイ&キース、ラガなまりの狂騒的なMCのマキシマム・リアリティがあおるあおるの大熱演をくり広げるらしいのだ。
 『XLとして契約するか否かは次の二点で決まる。まず、プロモ段階でレイヴDJ達のウケがいいかどうか。いくら周到なビデオ作ってもXLとしてはレイヴから離れてヒットは作れない。そして、プロディジーがいい例だけど、レイヴ・P.A.がキマるかどうか。ライヴのノリはすごく重要だ。XLは90年代のモータウンを目指しているからね(笑)』。―XL-RECORDINGSのA&R担当リチャード・ラッセル氏―
 なるほど、プロディジーの所属するXL・レーベルごとレイヴー色で、かなり焦点絞った活動してるんだ。それで、ブラガ・カーンやキュービック・22とか、ここのレーベルと契約したアーティストは次々人気者になるのね。

~ブレイクビーツテクノでさわげ! RAVE ON~
 と云う事で、レイヴ・シーンが作り出した初のレイヴスター、プロディジーのプロフィールについては何となく解って貰えたと思う。ここで話を再びKLFにあたりとの違いについて戻すと、極言すればプロディジーの音作りは、シーンをにぎわす他のどんなアーティストともキレまくった違いを見い出せはしまいか。そう、プロディジーはひたすらコピずに、引きずってナイ。ここが格好いいんだよな。
 T-99/クオドロフォニア、R&S系のニューウェイヴ残党ノリとも。ALTERN8のホワイトノイズ・テクノとも。2アンリミテッド~L.A.スタイルのポップ・ハードコアとも。プロディジーは全くシンクロしてません。比較解説(?)でちょっと恐縮だけど、そう思うでしょ?プロディジーのブレイクビーツ・テクノは君がこの、全く意味を持たない音でハッピーになれるかどうかだけで決まる、理屈抜きにヒップなダンスミュージックなんだ。
 『デトロイト・テクノ?ケヴィンやジュアンは確かにテクノの功労者としてはグレイトだけど、本当はあんまり影響されてない。ボクが本当に影響を受けてるのはレイヴに集まってくるヤツらさ。彼等に対して、いかにハードなRAVE―さわぎーを与え続けられるかがプロディジーのテーマなんだよ』。
 レイヴ・エイジのポップスター、プロディジーのサウンドが、レイヴを離れた所でも威力発揮するのは、このアルバムを手にしている君達がよーくわかってくれてると思う。
 さあ、ヴォリュームをグッと上げて!
(1992.8.14 本根 誠)

VARIOUS「XL RECORDINGS THE SECOND CHAPTER」


ハードコア・テクノの輝ける金字塔。
全てはこのアルバムから始まった!

 ハードコア・テクノのマスター・ピースを一枚、紹介しよう。
「XL RECORDINGS THE SECOND CHAPTER」。
サブタイトルは「HARDCORE EUROPEAN DANCE MUSIC」、である。

 今や一時期のユーロ・ビートをも凌ぐ程の
一大ムーブメントとなっている新種のダンス・ミュージックとして、
ハードコア・テクノは今、最も注目されている音楽ジャンルと言える。
この現象はハードコア・テクノ発祥の地、
ベルギーやイタリア、オランダ等のヨーロッパの国々はもとより、
レイヴ・パーティーでハードコア・テクノを盛り上げたイギリス、
そしてこの日本でもジュリアナTOKYOの圧倒的な集客力と、
ハードコア・テクノの魅力を早くから理解し、プレイし続け、
毎夜何千人もの人々を狂わせているD.J.ジョン・ロビンソンらの力によって、
L.A.スタイル、T99、2アンリミテッドら、
ハードコア・テクノのアルバムが世界一売れる国となったのである。
そして今やアメリカでも白人を中心としたクラバー達の間で
ハードコア・テクノが流行りつつ有り、
メジャー、マイナー共テクノのコンピレーションが数多くリリースされている、
といった具合に正に全世界的に猛威を奮っているという現状なのである。

 さて、そんな中でそもそも何かキッカケで始まったのかというと、
そんな質問が有る時必ず、真っ先に紹介しているのがこのアルバム、
そう、つまりあなたか今手にしている
「XL RECORDINGS THE SECOND CHAPTER」なのである。
昨年9月にリリースされて以来
現在まで今だに、売れ続けているというモンスターアルバムで、
この日本盤のリリースにより、
これまで以上に多くの人々に楽しんでもらう事が出来る事と、確信している。
このXLレコーディングスのオムニバスのシリーズは、
90年の「THE FIRST CHAPTER」、
91年のこの「THE SECOND CHAPTER」、
同91年の「THE THIRD CHAPTER」と、
これまで3枚のシリーズか出ているので、
これからハードコア・テクノを窮めてみようという方は是非、
他の2枚にもトライしてみていただきたい。
尚、今年中には第4弾が、
そしてエイベックス・トラックスからは何やら又々凄い企画が有るらしい。
一体ハードコア・テクノは、これからどんな展開を見せるのだろう?
全くもって目の離せない状況である。

 この「THE SECOND CHAPTER」、一体どこがそんなに凄いのだろう。
先ずは曲目と照らし合せて、その魅力を探っていってみよう。

●T99
イントロが始まって数秒後に飛び出すヒステリックなサンプルド・ボイスのリフ。
最早ハードコア・テクノのテーマと言ってもいいだろう。
この気違いじみた曲目当てにこのアルバムを探し回る人も多かった。
XLでは19番目のシングルとしてカットされた。

●CHANNEL X
デトロイト・テクノを白人流に解釈するとこうなる。
リズムに限って言えば、デトロイト・テクノそのものである。

●HOLY NOISE
ハードコア・テクノのもう一つのマスター・ピース、
L.A.スタイルの"JAMES BROWN IS DEAD"のアンサー・ソング、
"JAMES BROWN IS STILL A凵VE"の大ヒット曲で知られる彼らは、
同曲収録のアルバムもリリースしている。
これまた相当アブストラクト・クレイジーだ。

●JOHN + JULIE
今後新曲も続々とリリースされる予定の有る彼ら、大ブレイクも時間の問題だろう。
ブードゥーの呪いにも似た、何とも不気味な曲。XL23番目のシングル。

●SET UP SYSTEM、EXTERNAL GROUP、
「SET UP SYSTEM」は、XL22番目のシングル、
このフレーズもハードコア・テクノ定番中の定番である。
「EXTERNAL GROUP」を聞いて、
シカゴ・ハウスのタイリーを思い浮かべたあなたは、かなりのハウス通。
シカゴ・ハウスからUK産ブリープ物へと続く歴史の様な物が見えてくハズだ。
しかし、良く勉強しているヤツらだ。

●CUBIC 22
この曲も、このアルバムの目玉のーつ。
これ又ハードコア・テクノのテーマ曲である。
途中で狂人が見せる極めてまともな顔の様な美しいストリングと
センチメンタルなメロディーラインも、よけいにこの曲の異常さを際立たせている。
それにしてもこの曲の“PARTY TIME!”には
いつも体を突き動かされる。XL20番目のシングル。

●DIGITAL BOY、FREQUENCY
2曲ともダンスフロアでの評判もすこぶる良い曲。
特に「DIGITAL BOY」のアッパーさはどうだ!

●THE PRODIGY
XLがこの秋から最もプッシュするのが、この「PRODIGY」。
何というか、もしサイバー・パンクの子供向けアニメみたいな物が有るとしたら、
こんなBGMになるのではないだろうか。
ループしたブレイクビーツの使用法に、XLのその後の流れが見て取れる。
何とも可愛くて変わっている曲だ。XL21番目のシングル。

●INCUBUS
これも「PRODIGY」タイプのゲーム・ミュージック的な曲。
子供の頭の中の音である。

●PRAGAKHAN
一時期ブリープ・ハウスとして紹介された音の流れを汲む正に"RAVE SOUND"である。
この曲でパーティーはクライマックスへと続く。

 以上でこの「XL RECORDINGS THE SECOND CHAPTER」は幕を閉じる。
いかがだろうか?
この爆発的人気を得ている新しいダンス・ミュージックの魅力に
十分に満足していただけただろうか。
とはいえ、スタイルの移り変わりの早いこの手のサウンドは、
早くも新しい展開を見せている。
このシリーズをチェックし終わっても
まだまだ楽しんでみるべきポイントも数多く残っているのだ。
安心してはいられない。僕も皆さんといっしょに精進して行きたいと思っている。
又、このハードコア・テクノが生まれた背景等については、
このエイペックス・トラックスの「SUPER CLUB GROOVIN' VOL.7」で触れているので
興味の有る方はそちらも読んでみたらいかがだろう。
(佐藤 研)

1992年8月1日土曜日

T-99「マキシマイザー/アナスタシア」


T-99は1988年、スタジオ・プロジェクトとして生まれた。

 ベルギーのインディペンデント・レーベルのプロデューサーで、テクノトロニックやクアドロフォニアという世界的大スターを育て、影で仕掛けた男、パトリック・デ・マイヤーが自らのプロジェクトとしてはじめたのである。その当時、ヨーロッパで流行の兆しを見せていたニュー・ビートやロンドン発ハウス・サウンドの影響を大きく受けたファースト・シングル「Invisible Sensuality」は、アンダーグラウンドのハウス・シーンでは絶賛をあびるが、チャートでは不発に終わる。

 その後、「Slidy」、「Too Nice To Be Real」といったシングルをリリースするがいずれもインターナショナルなチャートでは成功におよばず、アンダーグラウンド・ヒットに終わる。しかし日本を含めた"早い物好き”のクラプDJやテクノ/パンク・ファンには、T-99の名前はすでにビッグ・ネームになりつつあった。

 そのT-99に大きな変化がおとずれたのは、クアドロフォニアのメンバーで、プログラマーであり、そしてコンピューター・キッズであったオリバー・アベルースがプロジェクトに参加してからである。昔のホラー映画のサントラや古いアナログのシンセなどが好きで、趣味はコンピューターであると言い切る、根っからのテクノ・オタク=オリバーは、ニュー・ビート全盛時代のベルギーのクラブでDJもこなしていたという変態人間である。

 彼ら2人のプロジェクトとして再出発した初めてのシングルが、なんとあの「アナスタシア」であった。オリバーが自ら理想の女性の名前を冠したというこのシングルは、テクノ、ハウス、ニュー・ビートなどすべてのダンス・ミュージックの影響を受け、なおかつ、脳に直接刺激を送るような爆発的サウンドで、まずDJ連の圧倒的支持を得、クラブ・フリークの人気をあつめるようになっていった。

 1991年初頭にまずベルギーで発売され、爆発的に大ヒットを記録。その後ヨーロッパ各地のチャートを制圧したのち、イギリスに上陸。イギリス各地のレイヴ・パーティなどで圧倒的な支持を得て、ついにはナショナル・チャートの14位に初登場。ラッパー、ゼノンと3人のヴォーギング・ガールズというライヴ用T-99がイギリスでショウ・ケースを行なううちにシングル盤はあれよあれよと上昇を続け、ついにナショナル・チャート第2位を記録する大ヒット曲となってしまったのである。

 この大ヒットに刺激されたフォロワー達が無数に現れてきたのは、いかにこの「アナスタシア」という曲のインパクトが強かったかということを物語るものだと言える。キュービック22、LAスタイル、2アンリミテッドなどいまだにチャートに現れては消えるテクノ・ミュージックの発火点はこの「アナスタシア」であったのだ。

 前述の“ライヴ用T-99”はその後、スペイン、イビサ、ドイツ、フランス、ベルギーなどをツアー。パワーあふれるゼノンのラップと世にも奇怪な姿をしたヴォーガー達がくりひろげる謎のステージは、T-99の音楽そのもの、脳みそぐちゃぐちゃステージである。そのステージの評判と共に、T-99は各国でスーパー・スターとなっていった。その後ステージ用バンドは“レベッカ”というヴォーカリストを加え、アメリカにも上陸。アメリカ・コロンビアというメジャー・レーベルからのリリースも決定し、ますます活動を加速させている。

 おなじ頃、アメリカや日本のクラブ/ディスコ・シーンでも、長い間なかったディスコだけのヒット・ソングとして熱狂的に迎えられ、昨年ダンス・フロアーNO.1のヒット・シングルとなった。現在、日本全国の主なディスコで、ここ一番の盛り上がりの時に必ずかかる曲、かければ必ず盛り上がる曲、それが「アナスタシア」であり、T-99である。

(unknown)

1992年7月21日火曜日

X-102 ‎「リングス・オブ・サタン」


  アンダーグランド・レジスタンス(以下、U.R.)の日本でのリリース第2作目にあたるこのX-102は、第1作X-101に続き、彼ら自身がX-プロジェクトと名付けるプロジェクトの第2作目だ。U.R.はデトロイトを拠点に活動するレコーディング・ユニットで、メンバーはマイケル・バンクスとジェフ・ミルズの二人。U.R.についてふれる前に、彼らの成立基盤を形成したデトロイトのインディペンデント・レーベルについてざっと振り返ってみよう。

 デトロイト・テクノは、1986年にインディペンデント・レーベル、『TRANSMAT』が第1作“X-RAY"をリリースしたことをきっかけに、シカゴ、ニュー・ヨーク等のおなじくハウス系インディペンデント・レーベルの乱立と相乗して成立していく。そうしたインディペンデント・レーベルは、クラブDJによって使用される、ブラックあるいはホワト・スリーブと呼ばれる無地ジャケット12インチ・ディスクのリリースを目的に設立されている。注目すべき点は、それらのレーベルが、従来のマスプロダクツによるレコード生産および流通からは切り離されたシステムの上に成立し勢力を拡大していった点だ。デトロイトの主なレーベルを挙げてみると、まずデリック・メイとジュアン・アトキンスの二人のDJ・リミキサーを中心に、幻想的な、あるいは攻撃的なシンセサイザー・サウンドをアナログリズムマシンのビートとともにミキシングするデトロイト・サウンドを確立したTRANSMAT。デトロイト・テクノがメジャー・マーケットにとりざたされるきっかけとなった、ケヴィン"マスターリーズ"サウンダーソンの自己レーベル『KMS』。ケビィン・サウンダーソンはパリス・グレイと組んだユニット、インナーシティが有名だけれど、REEZE名義でのシングルリリースをインナーシティと平行して行っている。KMSは彼の他にも、MK、シンボル&インストゥルメンツといったリミキサーたちのシングルをはじめ、数多くの12インチをリリースしている。さらに、TRANSMATがディストリビュートし、デリック・メイとの競作も多いカール・クレイグを中心に活動するレーベル『FRAGILE』。ケニー・ラーキンの『PLUS8』、カール・グレイグやMKも参加している『RETOROACTIVE』。デトロイト・アンビエントの代表格OCTAVE ONEが参加する『430WEST』など……彼らとそのレーベルは現れては消え復活し、インディペンデントにふさわしい流動的な戦略で(金が原因だろうけど)活動している。

 そうしたさなかに現れてきたのがURなのだが、そこにはデトロイトを統合したような音楽性を聴くことができた。リリースは遅かったがなぜかUR001のナンバリングを持つ、女性ヴォーカル、ヨランダをフィーチャーした“Your time is up"の、まさにシンナーシティそのものシンコペーションできまるストリングス・シンセから、ダブル12インチ"RIOT"ハードコア、SONIC EP“ORBIT"のメイ&ジュアン以上にメイ&ジュアン的(?)なサウンドといった具合いに。レーベル自体がまさか2人組のユニットだとは当初は誰も思わなかった。

 現在進行形のムーヴメントに対して多くを語ることはできないけれども、僕らはベールに包まれていたU.R.=マイケル・バンクス&ジェフ・ミルズにFAXを送った。かなり長いタイプ原稿が送られてきたので、できるだけ脚色をつけず、この場をかりて掲載させていただく。


Q1.

U.R.にとって、デトロイトとはどういった都市ですか。

A1.

 まず、インタビューに答えるのが遅れたことをお詫びしなくてはならない。そして、君が我々に興味を持ってくれたこと、しかもデトロイトで生まれ育った黒人から見た“本当のアメリカ”を日本人に説明できる機会が与えられたことは名誉なことだ、と言っておこう。

 デトロイトの人口の80パーセントは黒人であり、ドラッグやさまざまな犯罪、暴力、人種差別=爆撃、といった問題を抱えている。そう! 慢性失業も忘れることはできない。街の地政図を見れば、郊外には巨大な白人居住区があり、そこに住んでいるのは単なる人種的偏見から市街を見捨てて出て行った人々なのだ。彼らは黒人の隣には決して住まないし、絶対にそのつもりはないのだ。市街地と郊外には目に見えない境界線が引かれている。もし黒人がこのボーダーラインを越えれば、警察権力に迫害を受けることになる。――ロドニィ・キングがロス警察から袋叩きにされたことと同じだ。――我々の間では誰もが知っている、“D.M.Z.ボーダー”というその長さ8マイルの道路を未だに横切ったことの無い奴もいるくらいなのだから。市街地には脱出を試みようとする野心を無くした人々がざらにいる。彼らの無気力状態は、動物園の動物が艦が開いているのに逃げようとしないのと変わらない。そうした中で逃走をもくろむ一握りの黒人は、たいてい軍への入隊や、スポーツ、音楽、そして死といった手段で脱出を図ることになる。湾岸戦争の"砂漠の嵐”作戦の間、世界中の人々が多くの黒人兵を目にしたこともこれが原因だ。連中はアメリカという現実の戦争地帯から逃げだそうとしているのだから!!

 君たちは、なぜ他の移民と同様に“アメリカン・ドリーム”に便乗しないのかと問うことだろう。そう、君たちはこの200年あまりのことをざっと理解する必要があるだろうね。黒人は働き続け、他の人々の“自由”と“夢”のために死んでいったのだから。そのあいだ彼らは人間とさえ思われてなかったのだ。

 そのあげく、我々の夢と希望は他の移民達とは全く違った場所に向けられることになる。他の移民の夢は、とにかく豊かになって家族に安定した将来をもたらすことにあったが、我々の目指すものははるかに単純で、はるかに意味のあることだ。それは“自由”なのだ。

 君たちに理解してもらいたいのは、我々黒人はそういった逆境を乗り越え、何とか自分達の職業を確保し(少なくとも君たちが想像し得るような)プロフェッショナルを生みだしてきた、というとこだ。

 我々は、この国で戦争が起こるたびに戦場に駆り出されてきたにも関わらず、今だにアメリカ人として認められていない。――ロドニィ・キングをめぐる状況は我々の置かれた状況が何も変化していないことを再確認する不快な事件だった――我々はいまだに自由ではなく、しかも自国の言葉や習慣、伝統も何もかも全く知らないのだ。君たち自身が伝統のない日本を想像してみてくれ!

 そんなデトロイトの未来をイメージできるかい?

 カゴの中のネズミと同じく、捕まえられた人間に埋めつくされた一大中心街――そこでは強駅な精神力と肉体、生存への意志を持たないものは死を選ぶか、衰退(DECAY)によって消費し尽くされるしか無いのだ!!

Q2.

デトロイト・テクノについて説明してください。

A2.

 つまり、デトロイト・テクノは“衰退(DECAY)”から派生した音楽だ。人々は希望さえ持てないほどひどい状況に置かれ、なんとか順応して生きながらも、ついに逆境を乗り越えようとやっきになり始めた。最近のこのような“突然変異”としてマイク・タイソンはその代表的な例だし、パブリック・エネネーも、我々U.R.も然り、我々は皆ミュータントなのだ。デトロイト・テクノは人間とその環境が生みだした“突然変異”であり、人間とそのイマジネーション、そして機械がいかにして地獄から抜け出せるかという実験なのだ@

Q3.

U.R.にとってハウス・ミュージックとはなんですか。

A3.

 ハウス・ミュージックはシカゴから派生したものだ。シカゴの状況はデトロイトと酷似している。ハウスは平和、希望、愛といったポジティブな意味での逃走に焦点をあてているが、それは平和を維持するためには不可欠な要素だと思う。我々はこのような夢のある人達に、心から敬意を抱いている。なぜなら“夢”がなければ何も始まらないからだ。

Q4.

U.R.は、ガラージ、アシッド、ディープといった様々なスタイルで音楽を制作していますが、U.R.にとって音楽スタイルとはどういうものなのでしょうか。

A4.

 我々は音楽スタイルではなく、エネルギーとトーン(一般的に言う楽音、音素)とに分けて考えている。異なる楽音は異なるエネルギーを表す、というわけだ。もしジェフや私が、ポジティブなエネルギー、自らの精神から生まれる愛情を持つアーティストをプロデュースする場合、我々の考え(MIND)と機材を活用してその感情エネルギーを可聴範囲内でヴィジュアライズしようと務めるだろう。もしそのアーティストが、違った視点をもつとき――Tte VisionやU.R.のようにフラストレーション、怒り、実験精神ect.――はそれにふさわしいサウンドを探査しつつトラックにいれていくことになるだろう。

Q5.

ジェフとマイケルの役割分担を教えてください。

A5.

 U.R.+Tte VisionがX-プロジェクトで共同作業するとき、我々はMind Projecticon(精神投射)を実践し、様々な場所に移動する。非物質世界に自己をオトし、我々だけが知っているトーン(音素)を使って精神の中で自己を移送するのだ。我々が単一ユニットとして一体化(身体+特神)し、共同トリップした結果が音楽となるわけだ。

Q6.

X-101とX-102はU.R.サウンドにおいてどういったポジションに位置するのですか。A6.

 X-プロジェクトのすべては実験的なもので、リスナーの想像力を刺激するように設計されている。その結果、人類の未来への前進が可能になり、宇宙体系への直観力が研ぎ澄まされることになる。

Q7.

未来に向けて音楽はどのように発展すると思いますか。

A7.

 バイオテクノロジーの発展により、人類は現時点では可聴域外にある周波数の音を聴くことができるようになり、3D映像に対しても高解像度の視力を持つことが可能になるだろう。さらにホログラフィがタッチレスポンスを持つ可能性もある。そういったテクノロジーがAV製品の生産につながり、それによって音楽は前進をとげる。未来を指向するミュージシャンは常に現在より一歩進んだ音楽を創り出す。今我々がやっているように。

Q8.

フェイリバリット・アーティストを教えてください。

A8.

 地球上にはフェイバリット・アーティストは存在しない。

Q9.

現在、最も興味をもっていることは何ですか。

A9.

 明日を見届けるためのサヴァイバル。

Q10.

今後のスケジュール、また音楽戦略について教えてください。

A10.

 我々のスケジュールは散発性のもので、制御不能であり生命のようにまったく予測のつかないものだ。我々の戦略に狂いはない。ひとつのムーヴメントに向けて照準を合わせており、その運動は未来を指向している。

インタビュー構成 / 中島浩 訳/大坪弘人 remix,AUTOBAHN,LTD.


1992年6月25日木曜日

U96 「Uボート」


 “Das Boot"の最初のリリースでハンブルクのDJ.Alex Christensen(24歳)通称U96は、すぐにMedia Control Chartsの上位に躍り出た。“Das Boot"はそもそもジャズ・ミュージシャン、Klaus Doldinger(Passport)の手による'Bavarian film'提供の同名映画“Das Boot"のサウンド・トラック用に書かれた作品である。

 U96の'91年版、テクノ・ヴァージョンはマイケル・ジャクソンさえも押さえNo.1となり、既に6週間に亙ってその座を維持している。シングルはゴールド・ディスク(25万枚)に輝いた。

 このU96の成功は歴史の流れを変え、ドイツ音楽産業の"ルール”にいくつかの疑問を投げかけた。

――“Das Boot"は7インチではなく、12インチ、もしくはCDマキシ・スタイルのみで発売された最初のNo.1ソングである。

――“Das Boot"は初めてのNo.1テクノ・ソングである。

――“Das Boot"はプロモーション・ビデオのない作品だった。つまり、Tele5やMTVといったメディアのサポートを受けていない。

――“Das Boot"は最初ラジオでオン・エアされなかった。なぜなら、ラジオ局のプログラム戦略と相容れなかったためである。

 次なる成功のため、第2弾の12インチ、CDXにU96はJFKを艦内に引きづり込んだ。"I wanna be a Kennedy"はまたしても、折り紙つきのテクノ・サウンドだが、今回は相当ヘヴィで、ありきたりのチャート・ミュージックに接近してはいない。DJや予約の情況から判断しても、これも又、100%大ヒット間違いない。

 5月初旬にUボート、タイプU96は新たな航海に出る。同名シングルの旧ヴァージョンのヒットに始まり、U96のデビュー・アルバムはリスナーを幾千もの素敵な深海のミステリーの世界へと誘って行く。


COME 2 GETHER
 U96への搭乗式典の始まりだ。グロッケンシュピールが伝統的なハウス・ビートを奏でる。“Come 2 gether"と女性Voは歌っているけれどU-Boatの座席はプレミア付きだ。

DER KOMMANDANT(The Commanding Officer)
 何事も起こらない船内。"これからの長い航海”しかし突然騒ぎが巻き起こる。"どうしたんだ? 指揮官はどこだ?"無線とモールス信号のノイズが、シンセ・ヴァイオリンの穏やかな旅を妨げる。

NO CONTROL
 U96は静かな海をゆったりと航行して行く。出所不明の無線がきこえるが、他に目につくものと言えば海の無限の拡がりだけだ。グロッケンシュピールの音が再び楽しげに響いてくる。

ART OF U96
 船上のロマンティックな憩いの時。雨音が静かに船内に響き渡り、ピアノの音が愛を暗示し、空はヴァイオリンの音色に満ちている。

I WANNA BE A KENNEDY
 アンビエント・ミュージックとJohn.F.Kennedyがどっしりと海中を航行し、魅惑的な女性Voと静かにランデヴーしていく。

AMBIENT UNDERWORLD
 クラシック・ハウス・パーティが催されている。“Give Me A Beat Sucker"という声と、ハウス風キーボードがスピーディで、心地良いビートと共に再び響いている。ソウル風のGoGoダンサーは"Get Crazy,Get Busy.Let the Music Take Control”なんて言っている。

SPORTY ANIMAL-LOVING EXTROVERT
 DJ U96の強烈なビートに、少々毛色の違ったサウンドが加わる。エンジン・ルームは全速力で航行させて、ノイズはメチャクチャだ。ラジオは壊れ、ザーザー、ガーガー鳴り続けている。無線は混信し、U-Boatは浮上する。

SONAR SEQUENCES
 海はアウトバーンへと姿を変える。クラフトワークが乗り込んだのか、少なくとも彼らのキーボードが船内にあるみたいだ。長い間ではないけれど、U96のサウンドの中に居場所を見つけ印象的なサウンドを奏でている。

 突然の攻撃、船体は吹っ飛び、U96は潜水し、水中できしみをあげている。“Das Boot"の'91年旧ヴァージョンは、U96のエキサイティングな旅を終らせる。
 乗員は満足げに身をまかせる。

 アルバム“Das Boot"、そして2枚のマキシシングルは古巣である、ハンブルク、アルトナの“Matiz"スタジオで制作された。Hayo Panarinfo , Ingo Hauss,Helmut Hoinkis,そしてもちろんU96ことAlex Christensenによるプロデュースチームは、一月近くカンヅメになり、真険に作業に取り組み、最高の結果を生み出した。信じ難いほど短期間で、彼らはアルバム制作に成功し、テクノ・シーンの最高峰に君臨するのみならず、ハウス・アンビエント・ミュージックに影響を与えるだろう。

 “Das Boot"はアルバムにおいても、最初にチャート・インしたテクノ作品として、ドイツ・ポップ界の歴史に名を残すチャンスを持っている。

('92年2月オフィシャル・バイオグラフィより)

1992年5月28日木曜日

T-99 「ANASTHASIA」 2/2


T-99 THE ALBUM

 それがいつのことだったかは、もうはっきりとは思い出せないが、
真夜中のどこかのクラブだった。
その曲――T-99の「アナスタシア」を初めて耳にした時、心臓が収縮するような、
身体の中を落雷が貫いたような衝撃があった。
しかし、その曲が後にダンスフロアーのみならす、
一般レベルでも驚異的なポピュラリティを得、'91年を代表する曲に成ろうとは、
増してや、その曲が引き金になって生まれた
ハードコア・テクノ(デス・テクノ)と呼ばれるムーブメントが、数々の波乱を巻き起こしながらも、
こんなに大きくなろうとは予想だにしなかった。
その時から1年余り、彼らの公式日本デビュー盤が、やっと届いた。
ヒットシングルを3枚とも含んだ60分にも及ぶフルアルバムである。涙して聴くように!
しかし、ハードコア・テクノって何なのだ?
アルバムをリリースするだけの曲が無いこの手のアーティストの中にあって、
敢えて、今、アルバムを出すT-99は、このムーブメントを集約しようとしているのか…?
今一度、彼らとハードコアについて検証してみたい。

ハードコア・テクノ。

 それは、どこから、やってきたのか?
 ある者はビートUKから、ある者は渋谷WAVEから、
ある者はロンドンのクラブランドから、さらにある者は、ジュリアナ東京からと言う。
明確な規定はできない。デトロイトとロンドンが交感した。
そして、ベルギーが揺れた。
溜まったマグマが噴出するように同時多発的に優れた作品が生を授かった。

 それは、なにをいみするのか?
 虚無、デジタル変換された景色、電脳空間…?
エクスタシー、レイヴ・パーティ-、肉欲の欲する快感…?
そこには、言語的な意味性がほとんど存在しない。
あるのは、カットアップされた台詞や歌詞の断片のみ。
むしろ、執拗に繰り返される機械律動や、騒音と紙一重の合成音の織り成すスピード感に、
キャピタリズムの究極を見る気がする。

T-99=ハードコア・テクノ…?

 ソレハ、ドコカラ、ヤッテキタノカ?
 T-99は、元々パトリック・ド・メイヤーと
フィル・ワイルドによって結成されたベルギーのバンドだ。
初レコードリリースは1989年で、当時ベルギーで猛威を奮い始めていた
ニュービートスタイルの曲をWHO'S THAT BEAT?レーベルから出している
(この、WHO'S THAT BEAT?は、今もベルギー国内ではT-99をリリースしている
老舗のテクノ系レーベルで、地味ながら要チェックのアーティストを多数擁している)。
その後彼らは、まるでKLFのように次々とユニット名を変えながら、
おびただしい数のシングルを出し、その度毎に音を洗練させ、曲のスピードを上げていった。
それはまるで、マイナーで、
どこかイモ臭さの抜けないニュービートと決別するための儀式のようだった。
そうこうする内、フィル・ワイルドが脱退
(因に彼は、この後「GET READY FOR THIS」のヒットで知られる2 UNLIMITEDを結成する)、
パトリックはまだ10代の美少年、オリバー・アベルースをパートナーに迎えることになる。
初期のアナログシンセを含め50台以上のシンセを持っているおたくキーボード・プレーヤーと、
ヒップホップを始めとする黒人音楽に多大な影響を受けた、
プログラミングもできるDJが火花を散らし、合体した。
 ベルギーという国は、至る所で日常的にエレクトロニクス系の音楽が流れているらしい。
ジャーマン・テクノ(主にDAF)の影響の下、
数年の発酵の後にFRONT 242のようなボディ・ミュージックが生まれるといった、
緩やかな進化の流れが見られる、豊かな土壌なのだ。
アシッド・ハウスの歪んだ解釈から発生したニュービートが、
熟成され、変態し、全く新しいものに生まれ変われたのも、
そんな土壌を舞台にしたからこそかも知れない。
いずれにせよ、幸か不幸かその変態を体現したのがT-99だった。
そして、このような音楽は、八-ドコア・テクノと呼ばれだす。

 ソレハ、ナニヲ、イミスルノカ?
 T-99という名前は、ただの記号だと思う。
しかし、彼らが『アナスタシア』によって引き起こした波の影響は、
チェルノブイリの原発事故のそれのように未知数だ。
イギリスでも日本でも、誰も予想しなかった人気を得たこの曲は、
これ迄こうした音に興味を持っていなかった人々の頭にもノイズを刷り込み、
音の認知感覚や機械律動に対するアティテュードにズレを生じさせたかも知れない。
時間が経つと、テクノ病やエレクトロニクス熱があちこちで発病する。
大袈裟に言ってしまえば、
YMOがテクノポリスで為し遂げた電子音のファシズムを、現代に再現したのだ。
発病者が一定数を超えたとき、記号は伝説へと変化するだろう。

 ソレハ、ドコヘ、イクノカ?
 ここまで読み進む間にこのアルバムを聴き終えることができただろうか? 
素晴らしい出来の作品じゃないか。
はっきり言って、「アナスタシア」以降の2枚のシングル
(「ノクターン」、「力一ティアック」)には肩すかしを食らっていたから、
アルバム全部同じ展開の曲ばかりという心配もしていたのだが、彼らは一筋縄では行かない。
クアドロフォニアのリブ・マスターの話によれば、
最近のT-99は、ほとんどオリバー1人で作られているらしいので、
彼の天才的手腕が思う存分楽しめるってわけだ。
 小曲ながらモジュレーターのかかった
ヘヴィ・アナログシンセ音の機能的配列がカッコイイ「キャット・ウォーク」。
耳の中を飛び回る虫の羽音のような神経に障る音と、
気持ち良く歌い込む女性ヴォーカルが印象的なヒップホップの「マキシマイザー」。
昔の坂本龍-や808 STATEを思わせる、叙情的インストの「アフター・ビョンド」。
T-99流アンビエント(?)の「ザ・スカイドリーマー」。
ベルトラムに対する挑戦状、
果てしなく沈んでいくようにうねりまくるハマリ物の「ジ・エクエイション」等々…。
曲の幅はとても広いし、シンセの音色もカッコイイ。
ここまでアルバムとしてまとまったものを、
ハウス系のアーティストに求めるのは無理だと思っていたので、正直驚きだ。
そして、こうして他の曲と並べてみて、更に際立つ「アナスタシア」の革新性!
 「アナスタシア」は、ベルジャン・スタイルの
ハードコア・テクノの本格的誕生であったが、同時にそれは死でもあった。
中身の伴わないまま、スタイルのみ右へ倣えをしてしまった多くの奴等が、
自分達で築いてきたものを内側から食い潰した。
以前のインタビューで、オリジナリティーを重視すると語っていたオリバーが、
金太郎飴のようなアルバムを作らなかったのは当然のことかも知れない。
WHAT IS HARDCORE TECHNO?の答えが明確に提示されるアルバムには成らなかったが、
この尊い、前向きの姿勢には、既に次を見据えた彼らの視点が現われている。
それが究極の音だけにワン・アンド・オンリーなのだとしたら
ANASTHASIA IS HARDCORE TECHNO!なのだ。
T-99は、もう、次に向かって走り始めた。

(KEN=GO→)

T-99 「ANASTHASIA」 1/2


■僕とテクノ・ハウスとの出会い
 それは去年の7月に渡米しニューヨークを訪れた時でした。
目的はニュー・ミュージック・セミナー参加の為にでしたが、
夜になると血が騒ぐ僕は
改装しリフレッシュ・オープンしたクラブの"ライムライト"に行きました。
西暦2000年のディスコをイメージにした
「DISCO 2000」というスローガンの大きな幕を真上に貼った
ダンス・フ口アーの中では、「ビュン!ビュン!」
「ビョオーン!ビョオーン!」というノリの良い電子音の洪水だった。
その電子音の洪水の中で
白人のたくさんの2000人ぐらいの若者達がグシャ、グシャになって踊っているのです。
ゲイ・ピープルもたくさんいて日本では考えられない異様な雰囲気の中で
僕の目は点になり、頭の中は真っ白になっていました。
古くは70年代の"12・ウエスト""アイス・パレス"などにはじまり、
ニューヨークのゲイ・ディスコは何軒もみてきた僕だからその光景に驚いたのではない。
(但し、僕はそのケはありません!)
僕が衝撃を受けたのは、その圧倒的なグルーヴ感を醸し出す
電子音のダンス・ミュージックの数々です。
正確に言うと目が点になっていたのではなく耳がビーンと立ちっぱなしになってしまったのです。
僕は数日後、再びライムライトを訪れました。
また、電子音のグルーヴ感でトリップしてしまった僕。
気が付いた時は4時間たっていました。
 日本に帰ってきてから、数ヶ月後、
あのライムライトで聞いたような輸入盤レコードがたくさん入ってきた。
回りの人達は、それをテクノ・ハウスと呼ぶようになった。
そして、テクノ・ハウスは大変な大ブームになってしまいました。
世界的に見た場合、大ブームの口火は誰か?というと、
808ステイトが「オレ達が昔やっていた古い音楽じゃないか」と言いだしたりして、
誰が一番最初かという判断は難しいが、日本の場合はハッキリしている。
日本での大ブームの発火点になったのは、間違いなく、T-99の「アナスタシア」です。

 この動きを大きく解釈したアメリカのダンス・ミュージック雑誌である
「DMR(Dance Music Report)」誌は、遂に、1991年12月5日~12月18日号から
"TOP 50 TECHNO″というテクノ・ハウスのチャートの掲載をスタートしました。
これは、オフィシャルな初のテクノ・ハウスのチャートとなりました。
この初のテクノ・チャートの第1位はN-JOIで、T-99は第5位にランクされています。
このチャートのスタートがもう4ヶ月早ければT-99が第1位になっていたでしょう。

■テクノ・ハウス震源地のベルギーでは……
 テクノ・ハウスは現在、世界中で制作されています。
イギリス、ドイツ、イタリア、オランダ、アメリカ、日本、etc……。
 その中でもヒット曲が多いのはベルギーです。
T-99を筆頭にクアドロフォニア、2アンリミテッド、CUBIC22などなと………。
人口が1000万人しかいないこの国から、
どうして、世界中を熱狂させる大ヒット曲が続くのでしょうか?
 つい先日、クアドロフォニアが来日した際に、
僕はクアドロフォニアのメンバーであるラッパーのリブ・マスターにインタビューしました。
(このクアドロフォニアのメンバーの中には、
T-99のメンバーでもあるパトリック・デ・マイヤーとオリバー・アベルースがいます。
残念ながら2人とも今回は来日していませんでした。)
 僕が「今、テクノ・ハウスのブームで世界中がベルギーに注目しているけど、どう思う?」と聞くと、
彼は「確かに、世界的なブームになっているけど、
昔からベルギーでは堅い音が好まれる傾向があったんだ。
僕達ベルギーの連中にしてみれば
"なにを今更………オレ達は何年も前からやってるんだよ"って感じだね」と答えた。
なるほど、ベルギーでは古くからロックなどでもテクノ系の電子音楽が盛んな国であったために、
現在のテクノ・ブームに対しても
「オレ達がすっと昔からやっていた音楽なんだ」という揺るぎない自信を彼から感じました。
逆に、現在の大テクノ・ブームに困惑しているという印象でした。
さあ、それでは、いよいよ、T-99について御紹介しましょう。

■T-99について
 テクノトロニック、クアドロフォニアのプロデューサーとして有名な
パトリック・デ・マイヤーは1988年にスタジオ・プロジェクトとしてT-99をはじめました。
ファースト・シングルの「INVISIBLE SENSUALITY」をリリース。
その後も「SLIDY」と「TOO NICE TO BE REAL」などのシングルをリリースしましたが、
いずれも大きな成功に結びつきませんでした。
T-99に大きな変化がおきたのは1991年にクアドロフォニアのプログラマーである
オリバー・アベルースが参加してからです。
コンピューター・キッズであり、特異なプログラマーとして活躍中の彼が加入した
新生T-99のファースト・シングル「アナスタシア」は
異常な人気でヨーロッパ各国でチャート・インを果たし、
特にイギリスのナショナル・チャートでは第2位を記録しました。
さらに、アメリカのクラブ・チャートでも大ヒットを収めました。
この成功により、1991年6月からT-99は本格的なステージ活動をはじめました。
ゼノンというランパーと3人のヴォーギング・アーティストで構成されたグループは
イングランド、スコットランド、スペイン、
イビザ、ドイツ、フランス、ベルギーなどのヨーロッパ諸国をツアーしています。
 1991年9月にセカンド・シングル「ノクターン」をリリース。
この時に、レベッカという新しいヴォーカリストがグループに加入しています。
 この中で注目したい人はオリバー・アベルースです。
パトリック・デ・マイヤーも勿論、注目の人ですが、
新しいタイプの音を作るプロデューサー、コンピューター・ミュージシャンとして
今後のオリバー・アベルースがどのように動くのかは僕にとって非常に興味深いことです。
オリバーは14才の時からDJをはじめ、コンピューター科学を学んでいます。
趣味はコンピューター・ゲームという根っからのテクノ人間です。
リブ・マスターに「オリバーは、どういう人なの?」と聞いたら次のように答えてくれました。
「オリバーは一言で言うと物静かな奴なんだ。自分の世界に入りこんでいるんだ。
だから、彼をよく知らない人は難しく思うだろうな」。
 オリバーは天才なのかも知れません。
それは、アルバムの中の彼が作った翔んでいる音を聴くと納得できるでしょう。
それではアルバムを聴きましょう。

■このアルバムの中について
 御馴染みの超大ヒット曲「アナスタシア」は説明の必要がないでしょう。
セカンド・シングル「ノクターン」も「ヨシ!」としましょう。
他にノリの良さては「ガーディアック」がいい。
リズム体とラップの挑戦的なノリと「アナスタシア」の延長上のアレンジがボディに響きます。
他の曲でもノリの良いラップが入っているのは
パトリック・デ・マイヤーのコーディネイトだと思います。
その他の無機質な素の音源で作ったリズ厶体や
何かをイメージして作った幻想的なアレンジはオリバーの素顔を見た思いがします。

17 APL. 1992
松本みつぐ(赤シャツNOTE)

1992年5月27日水曜日

オー・ボニック「デス・テクノの暴君」



 「TECHNO」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
これは、ある共通の意識を基に作られた音楽を指してそう呼ばれている。
 「テクノ」の語源は、「TECHNOLOGY」=「技術」であるが、
決してベテランミュージシャン達が、
それぞれの技を競い合うというものではなく、
シンセサイザーや電子楽器を基調にして作られた音楽の事を、
誰が決めたものでもなく、そう呼ばれるようになったのである。

 今の時代、特にPOPSやROCKといわれる音楽の中で、
電子音楽をー切使用していないという物を探すのはとても難しいが、
この場合はあくまでシンセサイザーや、
電子楽器を肯定して作られた物でなくてはいけない。
何かの楽器の代用、
あるいはミュージシャンがいないからシンセサイザーを使ったなどという事では駄目なのである。

 さて、この「テクノ」であるが、
これを読んでいる方々の中でとても懐かしく思える人達がいるのではないだろうか。
「テクノ・ポップ」といえばもっと解りやすいかもしれない。
つまり80年代前半に、この日本でも大流行した音楽のことである。
そして「テクノ・カット」なるヘアー・スタイルまで生みだした。
そのムーブメントの台風の目こそが
我が日本が世界に誇れるアーティスト〈YMO〉だったのである。
念のため〈YMO〉を知らないという若い世代の人達の為に説明すると、
坂本龍一、細野晴臣、高橋幸宏といった3人のアーティストによって
1978年に結成されたグループのことで、
その音楽は日本のみならす、イギリス、ヨーロッパ、アメリカなどでも高い支持を受け、
現在まで日本国内の音楽業界に多大な影響を与えてきたのである。
まだ聴いたことがないという人がいるのなら、ぜひ聽いてみて欲しい。
なぜなら〈YMO〉はあなた達の子守歌であり、
この日本の国歌であるから(宗教みたいでゴメンネ)。

 さて、長々と「テクノ」についての説明をしたのには訳がある。
それは、この〈OH・BONIC〉が自分達のサウンドを「ハードコア・テクノ」と呼んでいること、
それから現在のクラブ・サウンドやダンス・ミュージック・シーンの中心が、
再びこの「テクノ」に覆われようとしていることからだ。

 それでは、なぜ今再び「テクノ」なのか!
オリジナル・テクノのルーツから、
その流れを僕なりの体験や推測を交えて分析してみよう。

 「テクノ」のルーツは、その母国といわれているドイツから始まる。
ジャーマン・プログレッシブ・ロックと言われるシーンが形成されていた70年代前半、
現代音楽の知識を電子楽器によって組み替えさせ、
緻密さの中のシンプルなサウンドを生みだしたのが
「ゴッド・ファザー・オブ・テクノ」〈KRAFTWERK〉である。

 1974年にリリースされた3rdフルアルバム『アウトバーン』が世界的ヒットを記録し、
76年『放射能』、77年『ヨーロッパ特急』とリリースを続け、
78年『人間解体』が出た頃には、
すでにそのサウンドはDISCOでも大流行するようになっていた。

 現在のテクノ・ハウスのクリエイター達のほとんどが、
クラフトワークの影響下に生まれたといっても過言ではないだろう。

 ドイツはこれ以降、続々とテクノ系アーティストが出てくるようになる
(古くはD.A.FやDIE KRUPPS、最近ではKMFDMなど)。

 そしてその78年、この日本に〈YMO〉(イエロー・マジック・オーケストラ)が登場するのである。
完全なる〈クラフトワーク〉の影響下にあったにせよ、
東洋的オリエンタルな旋律が海外でも高い評価を受け、
(日本国内での反応は先に触れた通り)
特にニューロマンティック・ムーブメント※前夜のイギリスでは、
そのムーブメントの仕掛け人達〈スティーブ・ストレンジ〉(VISAGE)や〈ミッジ・ユ一口〉
(後にULTRA VOXのリード・ヴォーカルになる)等によって広く紹介され、
ロンドンの最先端CLUBでは、
ニューロマンティック・ファッションに着飾った若者達が夜毎に、
この東洋のコンピューターサウンドで乱舞していたという
(※パンク・ムーブメント以降、NEW WAVEと呼ばれていたシーンの中で、
最も大きな動きをしていたムーブメントで、
〈DURAN DURAN〉などがこのシーンから誕生した)。

 又、イギリス国内からも、「エレポップ」(エレクトロニック・ポップスの略)と呼ばれる
サウンドが。あちこちから聞こえてくるようになり、
(O.M.D、HUMAN LEAGUE、SOFT CELL、HEAVEN 17、etc……)
クラブからDISCOへとまたたく間にテクノ―エレクトリック・ビートが浸透していったのである。

 80年代初期~中期にかけて、DISCOは12インチ・シングルと共に、
よりディスコ向けのサウンドを必要とする様になり、「HI・ENERGY」サウンドが生まれる。

それとは別に、オリジナル・テクノを継承するアーティストとして、〈デペッシュ・モード〉が、
ギ夕-サウンドにテクノロジーを融合することによって
全く新しいダンス・ミュージックを〈ニュー・オーダー〉が奏で、
そのヨーロッパ的なメロディ・ラインを引き継ぎ「ハイ・エナジー」は「ユ一口・ビート」へと変化する。

この辺りでは、<デッド・オア・アライブ〉や〈ペット・ショップ・ボーイズ〉といったアーティスト達が、
あからさまにクラブ/ディスコをターゲットにしたシングルをリリースして、
この日本でも一大ディスコ・ブームが到来する。

 そして「サンプリング」という優れた技術がー連のZTTのアーティスト達を送り出した。
くフランキー・コース・トウ・ハリウッド〉〈アート・オブ・ノイズ〉〈プロパガンダ〉等である。
 同時期、アメリカ大陸では、全く違ったアプローチから、
また新しいダンス・ミュージックが生まれた。
2台のターン・テーブルと1台のディスコ・ミキサーを駆使して、
その上にラップを重ねるといったこのスタイルは「HIP HOP」と呼ばれ、
世界中に猛威を発揮する。
そして更にクラブの黒人クリエイター達は、安物のリズム・マシンをつかい
「HOUSE」という踊るための音楽を作りだすのである
(この時期、初期のクラフトワークの曲や、エレポップの曲などがネタとしてよく使われた)。
 「ハウス・ミュージック」は80年代後半にロンドンに飛び火、
「アシッド・ハウス」が生まれ、人々は更に刺激的なサウンドを求めて
「エレクトリック・ボディ・ミュージック」が急浮上する。
又、アシッド・ハウスから別な流れも派生し「テクノ・ハウス」が誕生する。
「90Sテクノ・レボリューション」である。

 テクノ・ハウスは、よりリラックスできる「アンビエント・ハウス」と、
ベルギー産ボディ・ミュージックを吸収した
「ハード・コア・テクノ」へと二分化する(T99、CUBIC22)。

 ハード・コア・テクノは、イギリス・レイブ(野外パーティー)シーンで一大旋風を巻き起こし、
ヨーロッパ・アメリカへとその威力を発揮(これには〈KLF〉の功績も大きい)。

 スペースの関係上、大まかな流れしか説明出来す、
所々言葉が足りない所もあるが、大体の流れはこういう事である。

 そして「オー・ボニック」登場である。ダンス・ミュージック―テクノの流れを考えれば、
アメリカからこのてのアーティストが出てくるのは当然のことなのである。
しかしながら、当然とは言っても、
オー・ボニックの様なアーティストが沢山いる訳ではなく、
彼等はアメリカ・レイブシーンのパイオニア的存在といえるだろう。

 ニューヨークにあるサウンド・ラボ「ZOO」で作られたそのサウンドは、
テクノのフィーリングを活かしつつ、
更にアメリカの持つダイナミックなエネルギーが注入され、パワー全開に展開されている。
 今後、アメリカからのこういったアーティストは更に増えるであろう。

 70年代後半に誕生した「テクノ」は、様々な文化、歴史を飲み込み、90年代に蘇った。
これから先、ダンス・ミュージックは、よりいっそうテクノヘと向かい、更に加速し続けるであろう。
 日本が「テクノ・サウンド」に覆われるのも、もう時間の問題である。
(クラブDJ 関根信義)

1992年5月21日木曜日

EXIT 100「リキッド」


 たまたま乗ってしまった帰宅ラッシュの地下鉄の中で、
苦しそうにしながらも懸命に雑誌を読み続ける女がいた。
身動きの取れない状況で、視界に入った誌面を眺めていると、
イラスト入りで事細かに書かれたそれは、YMOとテクノに関する記事だった。
普通の女子大生っぽい女の子が読む雑誌にも、
こんな記事が載るほどテクノの復権も本格化したかと驚いた。
電車が新宿に着き、吐き出される人の波に押されて彼女が雑誌を閉じると、
何とそれは”朝日ジャーナル”だった!!!
全共闘をひきずった左翼系保守雑誌(?)になったとはいえ、腐っても朝ジャ。
サブカルチャーには一家言ありかと思ったが、こんな記事が載ろうとは。
心の中で『何故』にハテナが3つ付いた。

 ノスタルジーな口調でテクノが語られるのは、
昨今の『オタク』や懐かしのアニメ、ヒーローなどのメディアでのもてはやされ方と
同一線上にあると考えて間違いないだろう。
いい加減にして欲しい。
テクノは、1~2年の流行りで終わってしまったものではない。
ここしばらくのテクノ・ハウスの起こした激動で、
またテクノに新たな局面が見えてきているこの時代に、YMOがトップ・トピックなのか?
クワドロフォニアの来日公演の客の入りを見るまでもなく、
現在進行形のテクノは、まだまだトーキョーには根付いていないようだ。

 前置きが長くなったが、あなたが手にされたEXIT 100は、
世界に名だたるエレクトロニクス系の老舗ミュート・レーベルが、
フォース・インクというドイツのレーベルとの提携でイギリス・リリースしたアーティストである。
MIKE Ö B.とT. 303 H.という二人組によるユニットだということ以外は全く謎だが、
その切れまくる音の冴えには、一角成らぬポテンシャルを感じる。
やはり、ドイツといえばテクノのオリジネイターであり、
すべての電子音楽は、遡ればそこに辿りつくといっても、過言ではないだろう。

 ハード・コア・テクノの隆盛においては、
活躍の機会を逸し、今やっと一部のDJなどの間で見直されているジャーマン・テクノ。
古くはプログレの頃からその萌芽を見せ、クラフトワークにより全世界的な認知、定着に成功。
コニー・プランク/DAFのハンマー・ビートがマシーナリーな単調さの中に肉体の躍動を織り込んだ。
テクノとは言いがたいが、ノイバウテンの得意な存在感と過激なライヴ・パフォーマンスは、
エレクトロニクス系のアーティストのメタル・パーカッションの導入を加速化させた。
ハウス~ニュー・ビートの出現に際しても、
ZYX、ニュー・ゾーン、ZOTH OMMOG等の数多くのレーベルが、
良質のテクノハウス・サウンドを送り出してきた。
こうして歴史的に振り返ってみても、ジャーマン・テクノ・サウンドは
エレクトロニクス/テクノ・ミュージックの進化の節目節目に、重大な役割を果たしているのがわかる。
テクノ勃興期には彼の地に負けない勢いを誇った日本では、
未だにYMOを超える人材が出ないのとは対照的である。
テクノは、日本の馬鹿メディアで書かれているような、
クラフトワーク、YMO→ハード・コア・テクノという単純で突発的な発生はしていない。
(少なくともハウス以前までは)電子楽器の発展とともに超加速度的に進化した。
確かな流れと、脈々と受け継がれる遺産があるのだ。
その根幹と、重要な骨を形成するドイツからは、ここしばらく会心の一撃が出ていないのも確かだが、
いつ想像を絶する新しい潮流が出てきてもおかしくないのだ。
実際、ここに来てのカウンター・ベルジャンテクノ的な、テクノ・ハウスのリリースラッシュは、
何かを予感させるには十分のパワーが感じられる。



 さて、EXIT 100は如何だろう? このなんとも形容しがたい音は、
聞き手の神経を逆撫でし、発狂へと導くUFOからの殺人音響か? 
それとも電子の迷宮サイバー・スペースに響く子守唄か? 
初期のブリープ・ハウスに共通性を見出だせる異常なまでの音色へのこだわりと、
ストイックなミニマリズムは、一聴して引き込まれる派手さはないが、
エイズ・ウィルスのように、身体の中からじわじわとあなたをノックダウンさせるだろう。
ハード・コア・テクノのように派手な音使いや、
フォーマットに則った曲展開からは決して生まれてこないいぶし銀のうねりが、
メンバー自身のキレ具合を象徴している。
UNSAFE AT ANY SPEED(どんな速度でも危険)と注意が冠されたこの曲は、
まさに荒れ狂う嵐の中を車でとばすような、死と隣り合わせの会館がある。
これから次々リリースされるだろうこのシリーズの前奏曲としては、
恐ろしいほどのパワーを持ったEXIT 100『リキッド』は、
ジャーマン・テクノの新しい夜明けのテーマ曲にも、なるかもしれない。

(KEN=GO→)

1992年4月23日木曜日

VARIOUS 「THE BEST OF TECHNO TRAX TECHNO HOUSE REVOLUTION」


イマドキノ テクノガ オモシロイ

 すべてはロンドンではじまった…。
ロンドン郊外で非合法に開かれる
シークレット・テクノ・パーティー"レイヴ"の誕生が、風向きを大きく変えたのだ。
88~89年にかけてロンドンで猛威を振るったアシッド・ハウスは、
ケミカル・ドラッグ「エクスタシー」との結合で加速度的にその流行の速度を増して行った。
 「エクスタシー」はサイケデリック・フラワーズのころ
隆盛を究めた「LSD」とは完全に異質なモノだ。
 「LSD」が強い幻党症状を起因させるのに対し、
「エクスタシー」はあくまでも現実認識は行える限界ギリギリの快楽追汲型ドラックなのである。
つまり「LSD」の常習者に幻覚ゆえの被害妄想から殺人などを犯してしまう例はあっでも、
「エクスタシ」ではいっさいない。
そこに存在するのは、「しあわせ」感だけなのである。
 
この「エクスタシー」抜きにしては語れないのが、"レイヴ・パーティー"である。
慢性的なリセッション(景気後退)に喘いでいた若者たちを中心に、
週末あるポイントで秘密結社的に集まる"レイヴ・パーティー"への支持が高まっていった。
このパーティーこそがヨーロッパ・エリアのダンス情報発信基地となり、
アシッド・ハウス以降、重要な位置を占めていくのである。

テクノ勃発

 ベルギーで発生したテクノ・ムーブメント「ハードコア・テクノ」「デス・テクノ」によって、
世界中のダンス・マーケットが一変してしまった。
アシッド・ハウスの洗礼を受けたベルギーは、
ニュービートと呼ばれた独自のテクノ・ハウスを開発した。
日本では「ボディー・ビート」とともに愛されたこのニュービートは、
ジャーマン発ハンマー・ビートをよりテクノ・ハウス化した最終サウンドだと評価された。
 しかしニュービート(もしくはボディー・ビート)
ハードコア・テクノ(もしくはデス・テクノ)という構図は、決して直結しては成立しない。
なぜならドラッグ(エクスタシーのような)を媒介として形成されたレイヴ・カルチャーと
密接に関係することで、はじめて「ハードコア・テクノ」はその市民権を得たからだ。
 ちょっと前までなら、ハウスやテクノといえばクラブと相場が決まっていた。
特にロンドンのクラブでは、何曜日であろうとその内容さえ面白ければひとは集まってきた。
しかしサッチャー政権化でより厳しくなった警察当局の取締りを逃れるため
クラブは地下へと潜状していく。
そして、さらに事態は悪化した。
ジョン・メイジャース首相になって好転すると思われた経済政策の破錠である。
これはナイト・クラバーにとって、結果的に大きな打撃を与えることになってしまった。
お金を持てないクラバーたちにとってクラブの入場料はあまりに高く、
週に何回も足を運ぶことなどできなくなってしまったのだ。
これはロンドンだけではなく。イギリスの、ヨーロッパの、
ひいてはニューヨークでも共通していえることだ。
 しかし不景気になればなるほど流行するのもまた、クラブ・サウンドなのである。
ワンナイト・クラブ一回分のポケット・マネーを、
彼らは"週末のレイブ・パーティー”と"エクスタシーの購入"にあてる。
一昼夜、巨大なサウンド・システムから発射される
ハードコア・テクノやデス・テクノの絨毬爆撃を、カラダいっぱいに浴びながら踊り続ける。
人里離れた郊外の牧場や草原をシチュエーションに、レザー光線が会場に飛び交う。
テクノとガラージュをスピーディーにミックスしていく「DJ」は、ここでば"神"以上の存在だ。
手をあげ、鳴り物を吹きならし、
狂ったように踊りまくり、やがて本物のエクスタシーを迎える。
「しあわせ」の絶頂の瞬間だ。

 ここに収録されたテクノは、どれも大ヒットを記録した秀作である。
「エクスタシー」服用時に最も効果がある、
ドラッギーなハードコア・テクノ~デス・テクノのベスト・セレクションといえるだろう。

 ここで「ハードコア・テクノ」と「デス・テクノ」の分別法についても解説しておこう。
ハードコア・テクノとは一般に、
90年後半~91年夏にかけてリリースされたテクノに多くみられる。
この中には、808ステイト「キュービック」、ジョーイ・ベルトラム「エナジー・フラッシュ」、
シージェイ「ケット・ビジー・タイム」など、
シンプルな構成ながら気持ちよくトランスさせるチューンが分類される。
 この流れをより過激にしたのが、デス・テクノだ。
T99「アナスターシャ」、キュービック22「ナイト・イン・モーション」、
LAスタイル「ジェームス・ブラウン・イズ・デッド」をはじめ、
これ以後に多くみられる暴力性・残虐性を増したテクノがそれだ。
肉体の極限まで爆音が導いていくデス・テクノで、ディスコは大騒ぎなのである。

 かつてユーロビートやロックを愛聴していたひとまでが、テクノを聞く時代である。
バブル経済の崩壊は、ディスコ愛好者の指向性までを壊滅してしまったようだ!。
今夜テクノが、アナタを欲情させる。
ベッドルームでも愛して欲しい、テクノです。

宇野正展(NOBBY STYLE)

1992年2月21日金曜日

X-101 「X-101」


ロンドンのクラブ・シーンに異常アリ!

 1991年ロンドンを中継基地として世界に同時多発したテクノ・ムーヴメント。
ゲリラ的ともいえるその台頭は、まさに衝撃的だった。
「テクノなんて…」と一笑にふしていたひとたちが次々と、寝返る光景もいまでは決して珍しくない。
それぐらいテクノが一般化したのだ。

 これはロンドンでも、同じこと………。
登場以来アンダーグラウンド・シーンを支えてきた老舗
ブラック・マーケット・レコードが、ついにテクノ戦略を打ち出したのだ。
ちょっとでもロンドンのクラブ・シーンに明るいひとなら、これが大変な出来事だと分かるはず。
ガラージュ・ハウス(ソウルから派生したハウス)や
ヒップ・ホップに代表される黒人文化をベースに、
ブラック・マーケットは常に保守的立場をとってきたのだから。
しかしミュートとの融合が生み出したD・Jマッシヴ「マッシヴ・オーヴァー・ロード」の大ヒットで、
新しいブラック・マーケットがここに誕生したのだ。

 アナタがいま手にしているこのCDは、ブラック・マーケットが贈るテクノ戦略第2弾、
アンダーグラウンド・レジスタンス―X-101、である。
もしも何の予備知識もなく、不気味なジャケットや謎めいたアーティスト名から、
直観的に、アナタがこのCDをチョイスしたのなら、素・晴・ら・し・い!。
 まずは、ブラヴォーの一言を贈りたい。

 さてX-101の解説をはじめる前に、
アンダーグラウンド・レジスタンスについて、少しふれておこう。
アンダーグラウンド・レジスタンスは、デトロイトに拠点を置く2人組
ジェフ・ミルズとマイケル・バンクスによるプロジェクトである。
そして同時に、レーベル名も兼ねる。
これは、KLFコミュニケーションズ唯一のアーティストがKLFなのと似ているケースだ。
詳細は不明だが、レーベル結成は'91年初めごろ。
アンダーグラウンド・レジスタンスの名の通り、
既成のクラブ・シーンに対する革命的地下抵抗組織として機能しはじめる。
現在までのリリースは、ダブル12インチを含む12枚。
アンダーグラウンド・レジスタンス名義で8枚、
ヴィジョン、ブレイク・バクスター、パニッシャー、そしてこのX-101、がそれぞれ1枚ずつである。
女性ヴォーカリスト、ヨランダをフィーチャーした2曲'ユア・タイム・イズ・アップ'、
'リヴィング・フォー・ザ・ナイト'(オリジナル&リミックス)の3枚を除けば、
アンダーグラウンド・レジスタンスは完全なるテクノ・レーベルと位置づけられる。
特に初期の2枚(『ソニック』『ウェイヴフォーム』)はその傑作として、
いまなおクラブで"キープ・オン・スピニング"されている。
彼らの人気を不動にしたのは、ダブル12インチ『ライオット』の成功だろう。
ベルギー産デス・テクノ(初期ハードコア・テクノはいまや殺人的暴力的である)の
異常なまでの過熱ぶりで、一気にメジャー・シーンに引き上げられたのだ。
好むと好まざるとに拘らず…。
確かに12インチのセールスと人気とが比例しながら上昇していった。
こうした背景に、X-101は登場した。

 ここでアンダーグラウンド・レジスタンス誕生以前のデトロイトと、
ハードコア・テクノ~デス・テクノヘの変遷、についてもおさえておこう。
もともとデトロイトのクラブ・シーンは、テクノと密接に関係することで形成されてきた。
デトロイト・テクノと呼ばれる独特なテクノを生み出した、
3人のオリジネーターの存在を忘れてはいけない。
ジュアン・アトキンス、ケヴィン"マスターリース"サンダーソン、デリック・メイ、である。
マジック・ジュアンとも呼ばれるデトロイト・テクノの創始者J・アトキンスと
メイデイことD・メイはトランスマット・レコードを、いっぽうK・サンダーソンは
自らが主宰するKMS (頭文字の略)レコードを中心に、活動を開始した。
デトロイト・テクノをメジャーにしたのは紛れもなく、
K・サンダーソンが女性ヴォーカリスト、パリス・グレイと組んだプロジェクト
"インナー・シティー"の成功によってである。
デビュー・シングル『ビッグ・ファン』はまさに、デトロイト・テクノの覚醒を伝える名曲だった。
インコグニート・レコードからは、現アンダーグラウンド・レジスタンスの
ブレイク・バクスター(といってもおそらくは単発契約だと思う)がリリースしている。

サウンド的特徴としては、スピード感あふれるそのピッチの速さが挙げられる。
128~132BPMもあるハウスなんて、デトロイト・テクノ以外考えられなかった。
この伝統(?)はいまでも新興レーベルのアトモスフィアー、プラスー8、
もちろんアンダーグラウンド・レジスタンスにも継承されている。

 またハードコア・テクノ~デス・テクノヘの変遷過程においては、
いったいどう関与したのだろうか。
ニュー・ビートとも呼ばれるインダストリアル・ダンス系アーティスト
(例えばフロント242、スキニー・パピー、ミニストリーなど)に
デトロイト・テクノの要素を加えたのが、ハードコア・テクノのはじまりだった。
KLFの代表作『ホワット・タイム・イズ・ラヴ?』を
ニュー・ビートでリメイクしたベルギーのネオンやディアイゾンD、
革新的インダストリアル・アーティスト、グレーター・ザン・ワンのハードコア・プロジェクト、GTO。
デトロイトからの影響をもっとも強く受けたと思われる
R&Sレコードのスペクトラム、B・アート、ザ・プロジェクト、スペース・オペラ、デジタル・ヴァンプなど。
先述したJ・アトキンスによる、R-YHEもR&Sからライセンシングでリリースされている。
このようにハードコア・テクノの基礎確立には、
デトロイト・テクノとのゆるやかな関係が不可欠だったのである。

こうした背景に、T99『アナスターシャ』や
キュービック22『ナイト・イン・モーション』といったデス・テクノの傑作が誕生する。
『アナスターシャ』のイントロで印象的に叫ばれる
「ミュージック・イズ・マイ・ストロング、プリーズ!」のセリフも、
来るべきデス・テクノ・ブームへの号令だったのだ。
LAスタイル『ジェームス・ブラウン・イズ・デッド』がリリースされるころには、
デス・テクノ最初の絶頂期を迎える。
『ナイト・イン・モーション』で成功したJBサンプルへの逆説的メッセージに、
クラシック風リズムで料理したのがLAスタイルだ。
ネクスト・ステージは、ザ・R『レイヴ・ザ・プラネット』の登場となる。
踊れる限界のスピード、ヘヴィー・メタルのような激しいドラム・フィル、
めまいしそうな急激な展開と、なにもかもがヴァイオレンスなのだ。

 ここまでくるとデス・テクノが本来もつその殺人的暴力的な姿勢に加え、
残虐性をも伴ったテクノに発展してゆく。
もはやこれ以上、デス・テクノの成長はありえない。

 テクノは原点に還るしかなくなった。
 「シンプル・イズ・ザ・ベスト」を唱えるものも増えてきた。
 「オリジナルこそ、すべて!」というものも増えてきた。
みんなが、待っていたのだ。
X-101の出現を…。

 X-101については、ほとんど詳細が知らされてない。
アンダーグラウンド・レジスタンスの2人とヴィジョン
(『ジャイロスコピック』を同レーベルからリリースしている)によるプロジェクトだ、ということ以外は。

 曲目の解説に入ろう。
①は第1弾シングル・カット曲。
インパクトのあるリフが、カッコE!激しいなかにも豊かなセンスが感じられる名曲だ。
②は海外ではクラブよりも盛り上がるレイブ・シーンに対するX-101のテーマ曲。
マイナー進行でウネルようなベース・ラインがいい。
リヴァーヴ処理されたホウィッスルの使い方も効果的。
③はフル・ヴォリュームで聴いて欲しい。爆音体験が未知なる境地へ誘うはず。
ブリープ(発信音)が絶妙のタイミングだ。
④は①のシングルB面だった曲なので、もうおなじみの一曲だろう。
タイトル通りジェット機でG体験をしてるような錯覚に陥るかもしれない。
ちなみにシングルでは逆ミゾになっていたのも話題を呼んだ
(アンダーグラウンド・レジスタンスの多くのレコードは逆ミゾである)。
⑤は攻撃的に、⑥は柔らかくパーカッシヴに攻める、どちらもX-101らしいチューンだ。

 今年いちばんのテクノ革命児、ここに現れる。
なぞ・謎・ナソに包まれた戦略もいい。
KLFだって、最初はそうだったのだから。

NOBBY STYLE(宇野正展)