1991年9月25日水曜日

ジ・オーブ「アドヴェンチャーズ・ビヨンド・ジ・ウルトラワールド」


 THE ORB唯一の構成メンバー、アレックス・パターソンに初めて出会ったのは、年の瀬も押し迫る昨年12月のある日のこと。南ロンドンにある彼のオフィス、EGレコードに、某音楽誌の取材のため訪れたのが切っ掛けであった。相手がボクのことをどう思ったのかは知らないが、ボクにとっての彼の第一印象は一言――「かわいい狂人(マッドマン)」――。理由はカンタン、だいたい初対面の人間に対して開ロー番——「ストップ・ザ・ジャパニーズ、ドント・キル・ザ・ドルフィンズ!」――なんて言うか? まったく、もう。しかしこの「イルカ発言」のおかげ(?)でボクらの仲は急速に狭まった。彼は決してジャーナリストには明らかにしないという自宅にまで案内してくれたのである。そこでイルカをCG(コンピューター・グラフィック)処理したTHE ORBのプロモーション・フィルムを見せられ、彼のイルカに対する深い愛情の念に初めて気付く。なんと!! イギリス南海岸に生息するイルカが保護されるべく年間200ポンドものお金を寄付しているらしい。彼はそういう人間なのである。またそういう優しい人間だからこそできたのが、――THE ORBのデビューアルバム(しかも2枚組)「アドヴェンチャーズ・ビヨンド・ザ・ウルトラワールド」――なのだ。

 THE ORBという名前は、そもそも球のことで、女王陛下が持っている宝珠の意、に由来する。水晶にも似たものらしいが、THE ORBのサウンドもまさに宝石そのもので、基本的サウンド・アプローチの方法は、アレックスの音楽的バックグランドでもある――「アンビエント・ミュージック」――によるところが大きい。彼のフェイバリットは、ブライアン・イーノであり、ペンギン・カフェ・オーケストラ、だという。とりわけブライアン・イーノへの傾倒はたいへんなもので、彼が19歳の頃LSDをやりながらイーノの傑作「ミュージック・フォー・ザ・フィルム」を初めて聴いた時、彼流の言い方をすれば『いけないぐらいの衝撃』を受けたらしい。それ以後彼はイーノを敬愛し、尊敬し続けることとなり、ついにはイーノが所属するEGレコードに入社することになる。

 アレックスが学校を卒業するや否やパンク・ムーヴメントが台頭する。彼はまずキリング・ジョークのローディーとして働くことになるが、キリング・ジョークには現在アレックスのフラットメイトであり幼なじみのユースがいた。その後ユースはキリング・ジョークを脱退し、THE KLFのジミー・コーティーらとブリリアントを結成するが、このバンドのマネージメントを、PWL王国の一人ピート・ウォーターマンとTHE KLFのビル・ドラモンドが担当していたというのは、現在では有名な話である。

 こうした経験がアレックスにとって、ユースとの友情関係のみならず音楽面においても強固なパートナーシップを生み出す結果となった。ユースと設立したレーベルW・A・U(現在のWAU! MR.MODOの基礎)は、その一つの好例であろう。W・A・Uとは、「Weird And Unconventional」もしくは「What About Us」の略である。アレックスとユース二人の力だけではもはや運営できないほどの仕事を抱えはじめたW・A・Uは、シェフィールド(イギリス北部に位置する)に住むアダム・モリソンとイヴォンヌ・ドノヴァンに協力を要請する。こうして設立されたのが、WAU! MR. MODOで、MODOとはモリスンのMOとドノヴァンのDOに由来する。89年4月のWAU! MR. MODOレーベル設立以後、アレックスの活躍には目を見張るものがある。

 THE ORBのサウンドが、アレックスのイーノ信仰によるアンビエント・ミュージックをベースにしている、ということは既に述べたが、ではTHE ORB独自のアンビエント・サウンド(これは後にアンビエント・ハウスへと変容する)とは何なのであろか。――それは、
 アレックスのDJ-ingから得たアイディアを基にしている。彼をDJの世界に引き入れたのは意外にもポール・オークンフォードで、当時ポールがDJをしていたスペクトラムというクラブの月曜日に「LAND OF EARTH」というアンビエント・クラブを作り、アレックスをこのクラブのDJとして招いたのである。ここにはアンビエント・ルームがあり、リラックスしながらドラッグ(といっても主にはマリファナ、ハッシッシのようなライトなもの)をとりながら、ある異次元空間へと吸い込まれるように自然と入っていく。擬似小宇宙空間――の創設である。つまりここには外界のダンス・ミュージックにありがちな強烈なダンス・ビートというものの必要性はいっさい無く、肉体的興奮を否定し、精神的高揚を促しながらエクスタシーの境地へと誘う、のである。「LAND OF EARTH」閉鎖後も(ドラッグ問題により)アレックスは、イギリスのみならずヨーロッパでもDJ活動を続け、特にベルリンの壁が崩れた日にそこでDJをした想い出は今でも印象的らしい。彼のDJスタイルは、3ターンテーブル、1CD、1テープ・マシーン(現在はDAT)が基本だ。色々な自然の音(鳥の鳴き声や風の音など)をテープに録ってサンプルし、ターンテーブルやCDとライヴ・ミックスしてアンビエント・サウンドを作る。例えば元GONGのギターリスト、スティーヴ・ヒレッジとのハウス・プロジェクト「システム7」では、鳩の羽ばたく音をサンプルしている。

 また彼のクリエイトしたアンビエント・サウンドは、THE KLFにも大きな影響を与えた。THE KLFに初めて参加したのは1988年にリリースされたシングル「3AMエターナル」のリミックス「ブルー・ダヌーブ・オービタル」。彼を東京の某クラブに案内した時、このリミクスをDJにかけてもらったんだけど、やっぱり今でも気に入っているということだった。THE KLFの傑作アンビエント・アルバム「チル・アウト」などは、アレックスのDJ-ingのアイディアそのままで、彼にそのオリジナル・テープを聞かせてもらったところ、まさにそのもの。ピンク・フロイド「原子心母」に似せた羊のジャケット・アイディアも当然彼によるもので、このTHE ORBのスリーブ・ジャケットもやはりフロイドの「アニマル」をモチーフにしている。ここに登場する「マクアルパイン」というパワーステーションはもはや操業されておらず、現在取り壊しの危機に曝されている。

 THE KLFへの参加が、そのメンバーであるジミー・コーティーと共に「THE ORB」をスタートさせることになる。WAU! MR. MODOよりリリースされた1stシングル「キッス・ザ・スカイ」は、レックス・ディー(アレックス・パターソン)&ロックマン(ジミー・コーティー)の名前もクレジットされているコラボレーション作品。しかし楽曲的にも「THE ORB」が成熟するのは2ndシングル、通称ラヴィング・ユー、と呼ばれるディスク2/5曲目まで待たなければならない。このアルバムのミックスはアレックス自身によるライヴ・アンビエント・ミックスになっているが、シングルではダンサブルなアンビエント・ハウスに仕上げている。12"シングルのオリジナル・ヴァージョンはミニー・リパートンのトラック、リミックスではスザンヌというプロのシンガーに歌わせるという手のこんだこともやっている。しかしこの曲のヴォーカルに対する意見の分裂から二人は別れてしまう。そしてアレックスだけが残った「THE ORB」は決して失速することはなかったのだ。ディスク1/1曲目、ディスク2/1曲目と次々とシングル・カットし、業界に常に新鮮な話題を提供している。特に後者は新しいトレンド「ダブ・セックス」の中でも代表曲といわれている。レゲエから派生したダブ・ミュージックがハウスと融合した新しい音楽のカタチ。要チェックだ!

 「THE ORB」にとってアルバムの一曲一曲が各々ひとつひとつのアイディアなのである。つまり10分間の音楽の世界、ここに「THE ORB」は生息している。スコットランドで6月にジミーと会った時、彼はこのアルバムを絶賛していた。このサウンドが二人の間の垣根を取り除いたのである。

 このアルバムは男性よりも女性に多く好まれている、と伝え聞く。おそらくそれは彼自身がとてもフェミニンな性格ゆえのことだろう。限りなく深く優しくも柔らかな愛のアルバム、そんな印象のこのアルバムを是非末永く聞き続けて欲しい。いつまでも、いつまでも…………。

NOBBY STYLE(宇野正展)

1991年9月21日土曜日

ボム・ザ・ベース「Unknown Territory」

 


 80年代半ばロンドン。チャイニーズの血を引く一人の少年は、ウエスト・エンドのレストランで、あるいはクラブ<WAG>で働いては、その稼ぎを当時、ドイツから流れてくるテクノ・サウンドのレコード代に費やしていた。それはデペッシュ・モードであり、もちろんクラフトワークであり、ときとしてジェイムス・ブラウンでもあった。少年の名はティム・シムノン。DJの卵であった。そして、彼はせっせと稼いだお金から300ポンドをはたいて自らの曲をレコーディングする。その曲こそ、後に「2nd・サマー・オブ・ラブ」と称される1988年ロンドンの、アシッド・ハウス爆発に大きく貢献する、「ビート・ディス」の原形であった。そう、1988年に、ボム・ザ・ベース(爆発するベース)というとびきり素敵な名前でリズム・キング・レコードからデビューする、その予兆だったのである。

 ここでボム・ザ・ベースがデビューする1988年のロンドンという、特別な年について若干触れておきたい。何故なら1987年から88年という前述した「2nd・サマー・オブ・ラブ」こそ、現在のブリティッシュ・ダンス・シーンを語るうえで欠かせない、極めて劇的な時代だったからである。

 まず断っておきたいのは、70年代後半からポピュラー・ミュージックの主導権はダンス(ディスコ)ミュージックに移行している。それは70年代の終わりにロックの死を宣言し、「デス・ディスコ」(PIL)という曲によってダンス・ミュージックを実践したジョン・ライドンにも象徴されるようにドナ・サマーの出現以来、より多くの人たちに受け入れられる音楽(つまりヒット・チャート)はダンス・ミュージックに独占されていった。そして、それは密かにある革命を予告していたのである。クラブ(ディスコ)の出現である。これは、それまでのポピュラー・ミュージックに対する認識を、根底から覆してしまったのだから。

 もともとポピュラー・ミュージックはコンサート会場やライブハウスといった特定のトポスで、パフォーマーVSファンという構造のもと、コミュニケーションをとろうとするものであった。が、ダンス・ミュージックの特性はパフォーマー不在のクラブという空間で、DJというメディアがセレクト(編集)した曲に合わせて、クラバー、すなわちそこに集まる人たちが踊るというものである。実際の演奏行為に対し踊るわけではない。あらかじめ記録された音源(レコード)を、DJというメタ・パフォーマー(要するに単なるファンでは満足できなくなった聴き手)が好き勝手に編集した音に合わせて踊るのである。これはスターダム・システムの崩壊である。それが良質なダンス・ミュージックであるなら、他人がつくったレコードを適当に編集しなおしたり、(これをリミックスと呼ぶ)、他人のレコードで好きなフレーズがあったら、それをパクって(カット・アップ!)しまっても一向に構わないのである。クラブ・ミュージックとは、従来のシステムをいっさい無視して、音楽ファンがファンであることを放棄した、多分、最初のムーブメントであったのだ(ここまでDJについての解説を加えた理由については、後述するとしよう)。とにかく、「2nd・サマー・オブ・ラブ」は、こうしたクラブ・ミュージックがいっきに爆発したときだったのである。

 そこには、あらゆるジャンルのダンス・ミュージックが集結していた。レゲエの流れを汲むグラウンド・ビート、ノーザン・ソウルなどの洗礼を受けたレア・グルーヴ、テクノやオルタナティブ・ミュージックが進化したエレクトロニック・ボディ・ミュージック、そしてもちろん、当時のNYから届いたアシッド・ハウスやヒップホップ、デトロイト・テクノなど、あらゆるジャンルは、ダンス・ミュージックというキーによって取り払われ、流行したドラッグ”エクスタシー”の効果、廃墟を占領してのウェア・ハウス・パーティやパイレーツ・ラジオ(自由ラジオ)などの活躍もあって、それまでアンダーグラウンド的な動きでしかなかったクラブ・シーンは、唐突にオーバー・シーンへと浮上してしまったのである。

 この時代精神によって創設されたリズム・キングから、ボム・ザ・ベースは「ビート・ディス」をリリースするのである。流血したスマイル・マークが印象的なジャケットを呈したこのデビュー・シングルは、イギリスでヒットし、またたく間にティム・シムノンの名を世間に知らしめることになる。ちなみにほぼ同時期にデビューしたアーティストをいくつか挙げるとKLF(当時はJAMS)、M/A/R/R/S、808ステイト、エス・エクスプレス、ピート・マスターズ、ソウルIIソウル、ベイビー・フォード、コールド・カット、マッシヴ・アタック、T-コイなどがいる。このメンツをみれば、いかに「2nd・サマー・オブ・ラブ」が重要であったかが理解できると思うし、また注目すべきは、これらのアーティストが(ティム・シムノンも含めて)DJあがりだということであろう。ここに80年代ポピュラー・ミュージックの、革命的な一面をうかがうことができる。ここまで長々と、「2nd・サマー・オブ・ラブ」に関する説明を続けたのは、ティム・シムノンがデビューした時代的背景を理解するうえで少しでも役にたてばと思ってのことだ。90年代に入ってあわてふためいたように「これからはハウスじゃ」などと騒いでいる日本のメディアに、今さらケチをつける気はないが、ティムは少なくとも88年の本質的な意味での「これからはハウスじゃ」という時代の当事者であり、時代の裂け目の中からバンド名のとおり、とびきりの爆弾を仕掛けてくれた人なのである(心して聴こう!)。

 ボム・ザ・ベースは1988年にファースト・アルバム『イントゥ・ザ・ドラゴン』を発表している。これは彼の音楽的ルーツであるジャーマン・テクノの影響が大きく比重をしめたものであった。それから3年。長い沈黙があった。今年(1991年)に入って女性ヴォーカリスト、ロレッタをフィーチャーしたシングル「LOVE SO TRUE」がリリースされた。ボム・ザ・ベースではなくティム・シムノン名義であった。例の湾岸戦争による規制のためボム・ザ・ベースなんて名前は使えなかった。音のほうは「えっ、これがティムなの?」と言ってしまいそうなくらいソウル・ミュージック色が強い作品であった。ちっとも悪い作品ではない。でも、それはやはり「爆発するベース音」とは思えなかったし、僕にしてみれば、わがままとはいえ、物足りなかったのである。ふがぁぁ。

 ここに、3年振りのアルバム、本作「UNKNOWN TERRITORY」が届いた。先行してリリースされたシングル「WINTER IN JULY」も「LOVE SO TRUE」同様にポップでソウルフルな曲だった。いい曲だ。でも、わがままな聴き手はいつまでもわがままなものである。僕は、どうしてもあのベース音を、サイバー・テクノを聴きたかったのである。(リミックス・ヴァージョンは、あのボム・ザ・ベース!といった感じだったけどね)。まあ、そんな複雑な感情をもって、本作に挑んだ。で、1曲目「THROUGH OUT THE ENTIRE WORLD」のイントロが始まれば・・・。

 これなのである。このかっこよさ。これがボム・ザ・ベースなのである。僕は嬉しい。以下、各曲の解説なぞ不要であろう。ただ、一応、ライナーノーツらしくデータを挙げておこう。ゲスト・ミュージシャンとして、鈴木賢二、そして屋敷豪太が参加している。鈴木賢二のギターは、けっして弾きすぎることなく、ストイックに無機質な趣で導入されている。彼のテクニックとティムの資質が見事に結実した曲が、たとえば2曲目の「SWITCHING CHANNELS」であろう。僕個人としては、好きな曲である(このタイプの曲もシングル・カットしてほしいよん)。

 ところで僕は、本作リリース前に、ロンドンでティム・シムノンとそのメンバーたちに会っている。ティムはかつて雑誌でみた、帽子とパーカーとスマイル・マークが似合う、「サンダーバード」をサンプリングするような笑顔の少年ではなかった。それはそうである。なにしろあれから3年たったのだから。その3年の間にティムも当然変わったのだ。もはやスマイル・マークは必要ないし、キャップを被ることもない。髪も短くさっぱりとして、一見、物静かな好青年である。それを想うとシングル「WINTER IN JULY」が懐かしく響く。7月の冬。

 「2度目の恋の夏」は確実に終わったことなのである。だからこそ、新しい爆弾が必要なのだ。3年前の爆弾ではない。夏の終わりと新たなる始まりを予感させる、素敵な爆弾が。そして、あなたが今手にとっているコレは、きっと、僕らを夢中にしてくれる爆弾にちがいない。夏よ、また来い!

(野田努)

クアドロフォニア「COZMIC JAM」


「僕はニュー・ビートなんか嫌いだ。
 僕はずっとアンダーグラウンドハウスばかり聴いていたんだ」(オリバー・アベルース)

ベルギー、アントワープで会った無口な若きテクノ少年は、
自らのバック・グラウンドがひたすらマイナーであることを強調していた。
が、この少年、オリバー・アベルースこそ、
'91年度、ベルギーの、まったくの新人でありながら
クアドロフォニアというプロジェクトでヒットを飛ばしてしまう、
アンダーグラウンドどころではない、誰もが認めるブライテスト・ホープなのである。

実際にクアドロフォニアのヒットしたファースト・シングル
「クアドロフォニア」(本アルバム1曲目に収録)は見事なヒップ・ハウスであった。
売れないほうがおかしい、ポップでスピード感が溢れる、文句のつけようもない曲だ。
その曲の作者がオリバー・アベルース、という20代そこそこの若者なのだ。
最初に断言しておきたい。
間違いなくこのオリバー・アベルースは、
今後のベルジャン・ハウス・シーンにおいてもっとも注目すべき人物である。
それは、やはり本年('91年)にイギリスでスマッシュ・ヒットとなった
T99の「アナスタシア」がオリバーの別プロジェクトであることを知れば、
頷いていただけることだろう。

さて、ここでクアドロフォニアについていくらか解説しよう。
クアドロフォニアは、オリバー・アベルースと
黒人ラッパーのリヴ・マスターを中心に'90年に結成されている。
本作でも迫力あるラッピングを聴かせてくれるリヴは、
アメリカはカリフォルニア出身であり、軍人としてオランダにやってきている。
アメリカに住んでいたころ聴いたL.L.クールJがヒーローだったリヴは、
80年代の半ばにヨーロッパにやってきて、
そのままダンス・ミュージック・シーンのなかに飛び込んでいく。
当時のヨーロッパ、とくにベルギーは、
ニュー・ビートと呼ばれるダンス・ミュージックが始動しはじめたころで、
先鋭的なアーティストであるなら大抵は、
ヒップ・ホップの洗礼をうけた黒人に対して積極的な興味を示していたという。
リヴは、除隊してソウルとヒップ・ホップ、
そしてニュー・ビートが融合するプロジェクト、ファンキー・トライブを結成する。
ここで本作のプロデューサーであり、
また、オリバーとも深い交際のあるパトリック・デ・マイヤーと出会う。
バトリック・デ・マイヤーは初期のテクノトロニックに関係していた人物であり、
ニュー・ビートをメジャーにしたという意味においては、
テクノトロニックのジョー・ボガートと並んで菫要な人物である。
このファンキー・トライブは「ハイプ・イット・アップ」と
「ソウル・パトロール」という2枚のシングルをリリースして、
ドイツではクラブ・ヒットとなっている。

一方、オリバー・アベルースは、14歳からDJを始め、
45回転のレコードを33回転でかけるなど、一風変わったことをしていたようだ。
彼に言わせれば、回転数を遅くかけることによって、
ヘヴィーなベース音が得られるということである。
彼が当時、好んでかけていたのが
タキシード・ムーンであり、リキッド・リキッドであることからも、
自らをアンダーグラウンドだと主張する彼の趣向を垣間見ることができる。

この趣味もセンスもまったく違う二人が、
前述したバトリックの紹介によって出会うのである。
そう考えると、このバトリックこそが実は要注意人物なのかもしれない。
オリバーはこのことを
「自分にとってはまったく新しい作業のはじまりだった」と言っている。
テクノやアンダーグラウンド・ミュージックが好きな、
才能あるこの青年に、
もっとちがったやり方を勧めたのがパトリックだったわけである。
そして、それがものの見事にヒットしてしまったのである。

本作「COZMIC JAM」は、リヴのブラック・ソウルな個性と、オリバーのテクノ趣味が
センスよく出合っている(というか、ほとんど戦いみたいなものだけど)秀作だ。
808ステイトが好きだというオリバーの打ち込みドラミングには、
たしかにその影響がみられるし、
その影響をきちんと消化している彼の技量には、改めて驚かされる。
とくに7曲目など、すばらしいテクノ・サウンドを展開している。
また、リヴのドスのきいたラッピングも聴きごたえ充分で、
オリバーのハード・テクノに負けていない。

これはベルジャン・ハウス、90年代の幕開けである。
できるだけ大音量で聴いてほしい。
バンド名である「4次元サウンド」の由来が納得できるはずである。


この録音テクニックにこそ、クアドロフオニアの本質があるのかもしれない。
オリバー、リヴ、バトリックが企んだ、新しいダンス・ミュージック創造への試みが。


(野田努)