1990年12月21日金曜日

The Shamen 「EN-TACT」


 80年代の終わりから90年代にかけてのイギリスの音楽シーンでもっとも顕著だったのは、いわゆるインディ・ロック(死語?)とアシッド・ハウスの融合だったというのは多くの人が認めるところだと思う。ハッピー・マンデーズ、ジーザス・ジョーンズ、ストーン・ローゼズ、プライマル・スクリーム、ビーラヴドなど、多くのバンドがクラブ・サウンドに目を向けるようになったのは、死に体にあったイギリスのシーンにとっては幸いなことだったはずである。

 ただし、彼らとて、ハウスに接近したとはいえ、やはり未だにロックという文脈(コンテクスト)から完全に逃れるまでには至っていない。売れっ子ミキサーによるクラブ・ヴァージョンを造り出していくのがせいぜいであり、コンサートにしてもライティングに少し凝るくらいで、基本的にはあまり変化がないというのが実情だ。それが悪いとは言わない。ただ、もっと別のやり方――それも極端な――もあるということである。

 それを、シェイメンは実践した。彼らはロックというノスタルジアに拘泥することなく、そのコンテクストから軽々と飛翔してみせた。その結果産み出されたこのアルバム『EN-TACT』―これこそ、サイケデリアとハウスが生んだ鬼っ子なのである。

 シェイメンの母体となったのは、スコットランド東北部、アバディーンで結成されたアローン・アゲイン・オアというバンドだった。メジャーのポリドールと契約していたこのバンド(グループ名は60年代サイケ・グループ、ラヴのアルバム『Forever Changes』の中の1曲からとられた。)は、85年に解散し、その中心メンバーだったコリン・アンガス(vo,g)、デレク・マッケンジー(b)、キース・マッケンジー(ds)が同年、シェイメンをスタートさせたのである。バンド名のShamenは、メンバーによると、Shaman(シャーマン――呪術師のようなもの)のミス・スペルであるらしい。「それはジョークであり、パロディでもあるんだ。現代社会におけるポップ・グループの役割のね」(デレク)

 シェイメンのレコード・デビューは86年4月。インディ・レーベル、One Big Guitarから登場した「They Might Be Right/......But They're Certainly Wrong」と題された3曲入り(Happy Days他)のシングルが彼らの記念すべきファースト・シングルとなった。

 次いでシェイメンは、自分達のレーベル、MOKSHAを設立、そこからセカンド・シングル「Young 'Till Yesterday」を同年11月リリースした。このセカンド・シングルから新たにキーボーディストとして、ピート・スティーヴンソンが加入している。翌87年5月にサード・シングル「Something About You」が発表されたのを受けて、6月にはいよいよファースト・アルバム『Drop』がリリースされた。プロデューサーには、キュアーやスージー&ザ・バンシーズを手がけたマイク・ヘッジスの名も見える本作は、全12曲中6曲がシングル発表曲で、全体のサウンドもそれらのシングルの延長線上にあるものである。それは、フォト・コラージュを配した、幻惑的なレコード・ジャケットからもうかがえるような、ひんやりと暗く、歪んだトリップ感覚をたたえた、まさしくサイケデリックとしか言いようのないサウンドであった。実際、このころのシェイメンは、シングルのB面などで積極的にシド・バレットや13thフロア・エレヴェイターズなどの曲をカヴァーしていて、自らをネオ・サイケデリアの旗手として認めていたふしもある(Imaginary Recordsから出たシド・バレットのカヴァー・アルバム『Beyond The Wildwood』に「Long Gone」を提供してもいる)。そして、彼らの書く詞は、極めて政治的であり、このポリティカルな姿勢も、シェイメンの音楽のポイントにもなっていたのである。

 このポリティカルな姿勢は、ある事件をひき起こすことになった。このファースト・アルバムに収録されている「Happy Day」が、スコットランドのMcEwan Lagerと言うビール会社のTVコマーシャルに使われる予定であったが、その内容が余りにもあからさまなサッチャー批判だったため、バンドは前金の支払を受けていたにもかかわらず、その契約を破棄されてしまうという事件である(まあ、彼らの曲がコマーシャルで使われるという事実も、恐ろしいものがあるが)。

 サイケデリックといえばドラッグ、というふうに結びつけるのは短絡的かも知れないが、当時のシェイメン・サウンドは、ドラッグがもたらす意識の拡大と言った感覚を確かにもたらしてくれるような気がする。メンバー自身、そのような目的の為にドラッグを用いるとも語っているし…。ちなみに、彼らのレーベルMOKSHAは、メスカリンの人体実験のもようを記した「知覚の扉」で知られるオルダス・ハクスリーの、幻覚体験や神秘体験、幻覚剤などについて記した文章を編集してまとめられた「モクシャ」という本のタイトルからとられている。「モクシャ」とは「解脱」を意味するサンスクリット語で、ハクスリー最後のドラッグ・ユートピア小説「島」では、島民の幸福を支える重要な薬物に「モクシャ」という名がつけられているのだ。

 さて、ファースト・アルバムのリリース後、ベースが、デレクからウィル・シンノットに代わる。ウィルはグラスゴー出身で、アバディーンで精神病院の看護夫をしていたという。彼が巡回する病院の一つで、コリンが働いていたことから二人は知り合ったらしい。このメンバー・チェンジと前後して、バンドの方向性に変化が起こる。コリンがヒップ・ホップを聴いて衝撃を受け、「ロックンロールはもはやそこにいるべきではない」と考え、新加入のウィルも「真のエキサイトメントは、新しいテクノロジーを使うことにより、ダンス・ミュージックの領域内で起こるだろう」として、結果としてシェイメンは、打ち込みのマシン・ビートへの接近を見せ始めたのである。87年10月に出たシングル「Christpher Mayhew Says」は、そんな彼らの新しい方向性を打ち出していたし、続いて翌88年2月にリリースされた「Knature of a Girl」(ビートニク詩人のアレン・ギンズバーグに捧げられている)は、ますます覚醒感を強めた、炸裂するビートがうねりをあげる傑作だった。だが、そうした方向性に疑問を持った、キースとピートは遂にバンドを脱退、シェイメンはコリンとウィルのデュオ形態となって再出発するのである。

 88年6月には、6枚目のシングル「Jesus Loves Amerika」をリリース。これはEDIESTから発売された。本作はアメリカのTV伝導師の説教をサンプリングして使っており、またこれにあわせて郵便局の無料伝導メイル「ジーザス・イズ・アライヴ」に反発した「ジーザス・イズ・ア・ライ(キリストは嘘つき)」という名目のツアーを行なったりして、一部からは悪魔を礼賛するグループと非難されたりもしたシェイメンだったが、間にイタリア Materiali Sonori から出たコンピレーション『Strange Day Dreams』(シングルB面、ライヴ・トラックを含む全10曲)をはさんで、翌89年初めにセカンド・アルバム『In Gorvachev We Trust』を、今度はDemomからリリースする。だが、その前に一つの問題作がリリースされていたのである。88年11月に出された「Transcendental」がそれ。Desireレーベルから出たこのシングルのクレジットは、"Shamen vs Bam Bam"となっている。90年夏には同レーベルからフル・アルバムもリリースしているBam Bamはシカゴのハウス・ミックス・マスターで、彼の手になるこのシングルはもう完膚なきまでのハウスであり、ファンの間でも賛否両論を呼んだものだ。このシングルを作った時のことを、ウィルは次のように回想している。

 「アシッド・ハウスは、サウンドとフリケンシーを同じパターンの連続の中で変化させる。それを、メロディアスな構造の中で成しとげるのは、大きな矛盾をはらんでいるんだ。僕達の曲はメロディアスだから……本当、途方にくれたもんさ」

 スコットランドからロンドンに移り住んだシェイメンが、試行錯誤をくり返しながら作りあげたセカンド・アルバムは、その衝撃的なアルバム・タイトル(今さら言うまでもなく"In God We Trust"のパロディ)とジャケット(いばらの冠をつけたゴルバチョフ――ジーザス?――の顔めがけてアメリカ空軍の爆撃機が突っ込もうとしている)にもかかわらず、高い評価を得た。そして彼らは、このアルバムの売り上げと、それに伴うツアーの収入で、シンセサイザーやサンプラー、シーケンサーなどを買いそろえていったという。

 続いて89年3月、その後のシェイメンと深く関わることになるミキサー、"Evil"エド・リチャーズを迎えてシングル「You Me & Everything」、そしてミニ・アルバム『Phorward』を再びMOKSHAからリリースした。後者は旧作を含む完全なリミックス・アルバムで、彼らがいよいよ本格的にハウスに取り組み出したことを物語っていた。

 シェイメンの前進は、この年の夏に、シュガーキューブスで有名なワン・リトル・インディアンに移籍したことでさらに着実なものとなる。10月にOLIからのデビュー・シングル「Ωアミーゴ」をリリース。これはシェイメン本来のメロディアスな要素とパルシヴな要素が絶妙にブレンドされた好作品で、続く「プロゲン」(90年3月)も同路線のシングルで好評を得た。その後「プロゲン」の別ミックス(リミキサーには今をときめくポール・オークンフォルドやベン・チャップマン、そしてミュート所属のレネゲイド・サウンドウェイヴ――シェイメンは彼らの「コカイン・セックス」を聴いて衝撃を受けたと語っている――を起用)をリリース、次いで9月に「Make It Mine」とそのリミックス盤を経て、いよいよ本国イギリスでは10月にサード・アルバム、そして日本では彼らのデビュー作となる「EN-TACT』の登場となるのである。

 OLIに移籍してからのシェイメン・サウンドは、あのひきつった痙攣ビートにかわって、よりふくらみのある、ポジティヴなひびきを獲得したように感じられる。それゆえ、かつてのシェイメンの特徴だったカオティックでポリティカルな歌詞も、人々の集合意識やポジティヴな心の動きを賞賛するものへと変わってきたようだ。その上で、この『EN-TACT』は、快楽原則にのっとって造られた、パーフェクトなハウス・アルバムなのである。そう、シェイメンは今や"ロック"とは完全に訣別したのだ。

 「我々は、自分達のしていることを最もうまく表現するために、独自のコンテクストを創ろうとしている。ロックのコンテクストの中では何もできないからね」(ウィル)

 彼らは、アルバム制作中に新しい試みを行なった。"Synergy(シナジー)"と名付けられた、移動式のクラブ・イベントである。今年2月に、ロンドンのタウン&カントリーを皮切りに始まったこのショウ・パッケージ・ツアーは、1回5~6時間にもわたってライヴ、DJショウ、ライトショウなど、様々なアクトを盛り込んだものだ。

 「シェイメンはコンサートをやるのではなく、イベントを行なうのさ。我々はトラディショナルなロック・ギグのフォーマットから完全に離れようとしているんだ。我々は、ロック・ギグを、クラブでのそれにするよう努力してるんだよ。"シナジー"は、我々がプレイするところではどこでもひとつの小宇宙が形成されるという、我々の夢を実現させるためのもの。我々はやがて人々にとっての“もうひとつの(alternative)現実"を生み出すだろう。ドリーム・マシン(シンクロエナジャイザーのようなマシン)みたいなエレクトロニック・メディテーショナル・エキップメントを使ったりしてね」(コリン)

 「将来、もし我々が、ドリーム・マシンが個人に与えるのと同じ刺激を聴衆全員に与えられるライティング・テクノロジーを享受できれば、個人の「仮想現実(Virtual Reality)」を全体に連動することができるようになるだろう」(ウィル)

 シェイメンは、60年代のサイケデリア達が行なった、薬物によって自らの精神的自由を拡大していくアプローチを、メディア・テクノロジーによって実現しようとしているのだ。それは、かつてウィリアム・バロウズが指摘していたことなのである。

 「我々はサンプラーやコンピューターが、音楽のまったく新しい傾向を開拓したと考えている。あらゆる音楽創造の可能性は、今やテクノロジーにゆだねられているのであり、聴き手はそこにマッチするイマジネーションを探せばよいのだ」(コリン)

 3枚のシングルのタイトル・トラックを含む前半こそポップともいえる要素を持っている(元々シェイメンの曲作りのうまさには定評がある)このアルバムだが、あのジャー・ウォブルがベースを弾く9曲目の圧巻な「Evil Is Even」から、808ステイトのグラハム・マッセイがミックスした「Human NRG」を経た後半5曲は、アンビエントとも形容される、とてもオーガニックなサウンドをきかせている。そこには、ロックという枠組みから解き放たれたシェイメンの、自身の小宇宙への飛翔の姿が映しだされているのだ。


 コリン・アンガスとウィル・シノットは、本当に現代のシャーマンなのかもしれない。

[1990年10月 杉田 元一]