1992年5月28日木曜日

T-99 「ANASTHASIA」 2/2


T-99 THE ALBUM

 それがいつのことだったかは、もうはっきりとは思い出せないが、
真夜中のどこかのクラブだった。
その曲――T-99の「アナスタシア」を初めて耳にした時、心臓が収縮するような、
身体の中を落雷が貫いたような衝撃があった。
しかし、その曲が後にダンスフロアーのみならす、
一般レベルでも驚異的なポピュラリティを得、'91年を代表する曲に成ろうとは、
増してや、その曲が引き金になって生まれた
ハードコア・テクノ(デス・テクノ)と呼ばれるムーブメントが、数々の波乱を巻き起こしながらも、
こんなに大きくなろうとは予想だにしなかった。
その時から1年余り、彼らの公式日本デビュー盤が、やっと届いた。
ヒットシングルを3枚とも含んだ60分にも及ぶフルアルバムである。涙して聴くように!
しかし、ハードコア・テクノって何なのだ?
アルバムをリリースするだけの曲が無いこの手のアーティストの中にあって、
敢えて、今、アルバムを出すT-99は、このムーブメントを集約しようとしているのか…?
今一度、彼らとハードコアについて検証してみたい。

ハードコア・テクノ。

 それは、どこから、やってきたのか?
 ある者はビートUKから、ある者は渋谷WAVEから、
ある者はロンドンのクラブランドから、さらにある者は、ジュリアナ東京からと言う。
明確な規定はできない。デトロイトとロンドンが交感した。
そして、ベルギーが揺れた。
溜まったマグマが噴出するように同時多発的に優れた作品が生を授かった。

 それは、なにをいみするのか?
 虚無、デジタル変換された景色、電脳空間…?
エクスタシー、レイヴ・パーティ-、肉欲の欲する快感…?
そこには、言語的な意味性がほとんど存在しない。
あるのは、カットアップされた台詞や歌詞の断片のみ。
むしろ、執拗に繰り返される機械律動や、騒音と紙一重の合成音の織り成すスピード感に、
キャピタリズムの究極を見る気がする。

T-99=ハードコア・テクノ…?

 ソレハ、ドコカラ、ヤッテキタノカ?
 T-99は、元々パトリック・ド・メイヤーと
フィル・ワイルドによって結成されたベルギーのバンドだ。
初レコードリリースは1989年で、当時ベルギーで猛威を奮い始めていた
ニュービートスタイルの曲をWHO'S THAT BEAT?レーベルから出している
(この、WHO'S THAT BEAT?は、今もベルギー国内ではT-99をリリースしている
老舗のテクノ系レーベルで、地味ながら要チェックのアーティストを多数擁している)。
その後彼らは、まるでKLFのように次々とユニット名を変えながら、
おびただしい数のシングルを出し、その度毎に音を洗練させ、曲のスピードを上げていった。
それはまるで、マイナーで、
どこかイモ臭さの抜けないニュービートと決別するための儀式のようだった。
そうこうする内、フィル・ワイルドが脱退
(因に彼は、この後「GET READY FOR THIS」のヒットで知られる2 UNLIMITEDを結成する)、
パトリックはまだ10代の美少年、オリバー・アベルースをパートナーに迎えることになる。
初期のアナログシンセを含め50台以上のシンセを持っているおたくキーボード・プレーヤーと、
ヒップホップを始めとする黒人音楽に多大な影響を受けた、
プログラミングもできるDJが火花を散らし、合体した。
 ベルギーという国は、至る所で日常的にエレクトロニクス系の音楽が流れているらしい。
ジャーマン・テクノ(主にDAF)の影響の下、
数年の発酵の後にFRONT 242のようなボディ・ミュージックが生まれるといった、
緩やかな進化の流れが見られる、豊かな土壌なのだ。
アシッド・ハウスの歪んだ解釈から発生したニュービートが、
熟成され、変態し、全く新しいものに生まれ変われたのも、
そんな土壌を舞台にしたからこそかも知れない。
いずれにせよ、幸か不幸かその変態を体現したのがT-99だった。
そして、このような音楽は、八-ドコア・テクノと呼ばれだす。

 ソレハ、ナニヲ、イミスルノカ?
 T-99という名前は、ただの記号だと思う。
しかし、彼らが『アナスタシア』によって引き起こした波の影響は、
チェルノブイリの原発事故のそれのように未知数だ。
イギリスでも日本でも、誰も予想しなかった人気を得たこの曲は、
これ迄こうした音に興味を持っていなかった人々の頭にもノイズを刷り込み、
音の認知感覚や機械律動に対するアティテュードにズレを生じさせたかも知れない。
時間が経つと、テクノ病やエレクトロニクス熱があちこちで発病する。
大袈裟に言ってしまえば、
YMOがテクノポリスで為し遂げた電子音のファシズムを、現代に再現したのだ。
発病者が一定数を超えたとき、記号は伝説へと変化するだろう。

 ソレハ、ドコヘ、イクノカ?
 ここまで読み進む間にこのアルバムを聴き終えることができただろうか? 
素晴らしい出来の作品じゃないか。
はっきり言って、「アナスタシア」以降の2枚のシングル
(「ノクターン」、「力一ティアック」)には肩すかしを食らっていたから、
アルバム全部同じ展開の曲ばかりという心配もしていたのだが、彼らは一筋縄では行かない。
クアドロフォニアのリブ・マスターの話によれば、
最近のT-99は、ほとんどオリバー1人で作られているらしいので、
彼の天才的手腕が思う存分楽しめるってわけだ。
 小曲ながらモジュレーターのかかった
ヘヴィ・アナログシンセ音の機能的配列がカッコイイ「キャット・ウォーク」。
耳の中を飛び回る虫の羽音のような神経に障る音と、
気持ち良く歌い込む女性ヴォーカルが印象的なヒップホップの「マキシマイザー」。
昔の坂本龍-や808 STATEを思わせる、叙情的インストの「アフター・ビョンド」。
T-99流アンビエント(?)の「ザ・スカイドリーマー」。
ベルトラムに対する挑戦状、
果てしなく沈んでいくようにうねりまくるハマリ物の「ジ・エクエイション」等々…。
曲の幅はとても広いし、シンセの音色もカッコイイ。
ここまでアルバムとしてまとまったものを、
ハウス系のアーティストに求めるのは無理だと思っていたので、正直驚きだ。
そして、こうして他の曲と並べてみて、更に際立つ「アナスタシア」の革新性!
 「アナスタシア」は、ベルジャン・スタイルの
ハードコア・テクノの本格的誕生であったが、同時にそれは死でもあった。
中身の伴わないまま、スタイルのみ右へ倣えをしてしまった多くの奴等が、
自分達で築いてきたものを内側から食い潰した。
以前のインタビューで、オリジナリティーを重視すると語っていたオリバーが、
金太郎飴のようなアルバムを作らなかったのは当然のことかも知れない。
WHAT IS HARDCORE TECHNO?の答えが明確に提示されるアルバムには成らなかったが、
この尊い、前向きの姿勢には、既に次を見据えた彼らの視点が現われている。
それが究極の音だけにワン・アンド・オンリーなのだとしたら
ANASTHASIA IS HARDCORE TECHNO!なのだ。
T-99は、もう、次に向かって走り始めた。

(KEN=GO→)

T-99 「ANASTHASIA」 1/2


■僕とテクノ・ハウスとの出会い
 それは去年の7月に渡米しニューヨークを訪れた時でした。
目的はニュー・ミュージック・セミナー参加の為にでしたが、
夜になると血が騒ぐ僕は
改装しリフレッシュ・オープンしたクラブの"ライムライト"に行きました。
西暦2000年のディスコをイメージにした
「DISCO 2000」というスローガンの大きな幕を真上に貼った
ダンス・フ口アーの中では、「ビュン!ビュン!」
「ビョオーン!ビョオーン!」というノリの良い電子音の洪水だった。
その電子音の洪水の中で
白人のたくさんの2000人ぐらいの若者達がグシャ、グシャになって踊っているのです。
ゲイ・ピープルもたくさんいて日本では考えられない異様な雰囲気の中で
僕の目は点になり、頭の中は真っ白になっていました。
古くは70年代の"12・ウエスト""アイス・パレス"などにはじまり、
ニューヨークのゲイ・ディスコは何軒もみてきた僕だからその光景に驚いたのではない。
(但し、僕はそのケはありません!)
僕が衝撃を受けたのは、その圧倒的なグルーヴ感を醸し出す
電子音のダンス・ミュージックの数々です。
正確に言うと目が点になっていたのではなく耳がビーンと立ちっぱなしになってしまったのです。
僕は数日後、再びライムライトを訪れました。
また、電子音のグルーヴ感でトリップしてしまった僕。
気が付いた時は4時間たっていました。
 日本に帰ってきてから、数ヶ月後、
あのライムライトで聞いたような輸入盤レコードがたくさん入ってきた。
回りの人達は、それをテクノ・ハウスと呼ぶようになった。
そして、テクノ・ハウスは大変な大ブームになってしまいました。
世界的に見た場合、大ブームの口火は誰か?というと、
808ステイトが「オレ達が昔やっていた古い音楽じゃないか」と言いだしたりして、
誰が一番最初かという判断は難しいが、日本の場合はハッキリしている。
日本での大ブームの発火点になったのは、間違いなく、T-99の「アナスタシア」です。

 この動きを大きく解釈したアメリカのダンス・ミュージック雑誌である
「DMR(Dance Music Report)」誌は、遂に、1991年12月5日~12月18日号から
"TOP 50 TECHNO″というテクノ・ハウスのチャートの掲載をスタートしました。
これは、オフィシャルな初のテクノ・ハウスのチャートとなりました。
この初のテクノ・チャートの第1位はN-JOIで、T-99は第5位にランクされています。
このチャートのスタートがもう4ヶ月早ければT-99が第1位になっていたでしょう。

■テクノ・ハウス震源地のベルギーでは……
 テクノ・ハウスは現在、世界中で制作されています。
イギリス、ドイツ、イタリア、オランダ、アメリカ、日本、etc……。
 その中でもヒット曲が多いのはベルギーです。
T-99を筆頭にクアドロフォニア、2アンリミテッド、CUBIC22などなと………。
人口が1000万人しかいないこの国から、
どうして、世界中を熱狂させる大ヒット曲が続くのでしょうか?
 つい先日、クアドロフォニアが来日した際に、
僕はクアドロフォニアのメンバーであるラッパーのリブ・マスターにインタビューしました。
(このクアドロフォニアのメンバーの中には、
T-99のメンバーでもあるパトリック・デ・マイヤーとオリバー・アベルースがいます。
残念ながら2人とも今回は来日していませんでした。)
 僕が「今、テクノ・ハウスのブームで世界中がベルギーに注目しているけど、どう思う?」と聞くと、
彼は「確かに、世界的なブームになっているけど、
昔からベルギーでは堅い音が好まれる傾向があったんだ。
僕達ベルギーの連中にしてみれば
"なにを今更………オレ達は何年も前からやってるんだよ"って感じだね」と答えた。
なるほど、ベルギーでは古くからロックなどでもテクノ系の電子音楽が盛んな国であったために、
現在のテクノ・ブームに対しても
「オレ達がすっと昔からやっていた音楽なんだ」という揺るぎない自信を彼から感じました。
逆に、現在の大テクノ・ブームに困惑しているという印象でした。
さあ、それでは、いよいよ、T-99について御紹介しましょう。

■T-99について
 テクノトロニック、クアドロフォニアのプロデューサーとして有名な
パトリック・デ・マイヤーは1988年にスタジオ・プロジェクトとしてT-99をはじめました。
ファースト・シングルの「INVISIBLE SENSUALITY」をリリース。
その後も「SLIDY」と「TOO NICE TO BE REAL」などのシングルをリリースしましたが、
いずれも大きな成功に結びつきませんでした。
T-99に大きな変化がおきたのは1991年にクアドロフォニアのプログラマーである
オリバー・アベルースが参加してからです。
コンピューター・キッズであり、特異なプログラマーとして活躍中の彼が加入した
新生T-99のファースト・シングル「アナスタシア」は
異常な人気でヨーロッパ各国でチャート・インを果たし、
特にイギリスのナショナル・チャートでは第2位を記録しました。
さらに、アメリカのクラブ・チャートでも大ヒットを収めました。
この成功により、1991年6月からT-99は本格的なステージ活動をはじめました。
ゼノンというランパーと3人のヴォーギング・アーティストで構成されたグループは
イングランド、スコットランド、スペイン、
イビザ、ドイツ、フランス、ベルギーなどのヨーロッパ諸国をツアーしています。
 1991年9月にセカンド・シングル「ノクターン」をリリース。
この時に、レベッカという新しいヴォーカリストがグループに加入しています。
 この中で注目したい人はオリバー・アベルースです。
パトリック・デ・マイヤーも勿論、注目の人ですが、
新しいタイプの音を作るプロデューサー、コンピューター・ミュージシャンとして
今後のオリバー・アベルースがどのように動くのかは僕にとって非常に興味深いことです。
オリバーは14才の時からDJをはじめ、コンピューター科学を学んでいます。
趣味はコンピューター・ゲームという根っからのテクノ人間です。
リブ・マスターに「オリバーは、どういう人なの?」と聞いたら次のように答えてくれました。
「オリバーは一言で言うと物静かな奴なんだ。自分の世界に入りこんでいるんだ。
だから、彼をよく知らない人は難しく思うだろうな」。
 オリバーは天才なのかも知れません。
それは、アルバムの中の彼が作った翔んでいる音を聴くと納得できるでしょう。
それではアルバムを聴きましょう。

■このアルバムの中について
 御馴染みの超大ヒット曲「アナスタシア」は説明の必要がないでしょう。
セカンド・シングル「ノクターン」も「ヨシ!」としましょう。
他にノリの良さては「ガーディアック」がいい。
リズム体とラップの挑戦的なノリと「アナスタシア」の延長上のアレンジがボディに響きます。
他の曲でもノリの良いラップが入っているのは
パトリック・デ・マイヤーのコーディネイトだと思います。
その他の無機質な素の音源で作ったリズ厶体や
何かをイメージして作った幻想的なアレンジはオリバーの素顔を見た思いがします。

17 APL. 1992
松本みつぐ(赤シャツNOTE)

1992年5月27日水曜日

オー・ボニック「デス・テクノの暴君」



 「TECHNO」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
これは、ある共通の意識を基に作られた音楽を指してそう呼ばれている。
 「テクノ」の語源は、「TECHNOLOGY」=「技術」であるが、
決してベテランミュージシャン達が、
それぞれの技を競い合うというものではなく、
シンセサイザーや電子楽器を基調にして作られた音楽の事を、
誰が決めたものでもなく、そう呼ばれるようになったのである。

 今の時代、特にPOPSやROCKといわれる音楽の中で、
電子音楽をー切使用していないという物を探すのはとても難しいが、
この場合はあくまでシンセサイザーや、
電子楽器を肯定して作られた物でなくてはいけない。
何かの楽器の代用、
あるいはミュージシャンがいないからシンセサイザーを使ったなどという事では駄目なのである。

 さて、この「テクノ」であるが、
これを読んでいる方々の中でとても懐かしく思える人達がいるのではないだろうか。
「テクノ・ポップ」といえばもっと解りやすいかもしれない。
つまり80年代前半に、この日本でも大流行した音楽のことである。
そして「テクノ・カット」なるヘアー・スタイルまで生みだした。
そのムーブメントの台風の目こそが
我が日本が世界に誇れるアーティスト〈YMO〉だったのである。
念のため〈YMO〉を知らないという若い世代の人達の為に説明すると、
坂本龍一、細野晴臣、高橋幸宏といった3人のアーティストによって
1978年に結成されたグループのことで、
その音楽は日本のみならす、イギリス、ヨーロッパ、アメリカなどでも高い支持を受け、
現在まで日本国内の音楽業界に多大な影響を与えてきたのである。
まだ聴いたことがないという人がいるのなら、ぜひ聽いてみて欲しい。
なぜなら〈YMO〉はあなた達の子守歌であり、
この日本の国歌であるから(宗教みたいでゴメンネ)。

 さて、長々と「テクノ」についての説明をしたのには訳がある。
それは、この〈OH・BONIC〉が自分達のサウンドを「ハードコア・テクノ」と呼んでいること、
それから現在のクラブ・サウンドやダンス・ミュージック・シーンの中心が、
再びこの「テクノ」に覆われようとしていることからだ。

 それでは、なぜ今再び「テクノ」なのか!
オリジナル・テクノのルーツから、
その流れを僕なりの体験や推測を交えて分析してみよう。

 「テクノ」のルーツは、その母国といわれているドイツから始まる。
ジャーマン・プログレッシブ・ロックと言われるシーンが形成されていた70年代前半、
現代音楽の知識を電子楽器によって組み替えさせ、
緻密さの中のシンプルなサウンドを生みだしたのが
「ゴッド・ファザー・オブ・テクノ」〈KRAFTWERK〉である。

 1974年にリリースされた3rdフルアルバム『アウトバーン』が世界的ヒットを記録し、
76年『放射能』、77年『ヨーロッパ特急』とリリースを続け、
78年『人間解体』が出た頃には、
すでにそのサウンドはDISCOでも大流行するようになっていた。

 現在のテクノ・ハウスのクリエイター達のほとんどが、
クラフトワークの影響下に生まれたといっても過言ではないだろう。

 ドイツはこれ以降、続々とテクノ系アーティストが出てくるようになる
(古くはD.A.FやDIE KRUPPS、最近ではKMFDMなど)。

 そしてその78年、この日本に〈YMO〉(イエロー・マジック・オーケストラ)が登場するのである。
完全なる〈クラフトワーク〉の影響下にあったにせよ、
東洋的オリエンタルな旋律が海外でも高い評価を受け、
(日本国内での反応は先に触れた通り)
特にニューロマンティック・ムーブメント※前夜のイギリスでは、
そのムーブメントの仕掛け人達〈スティーブ・ストレンジ〉(VISAGE)や〈ミッジ・ユ一口〉
(後にULTRA VOXのリード・ヴォーカルになる)等によって広く紹介され、
ロンドンの最先端CLUBでは、
ニューロマンティック・ファッションに着飾った若者達が夜毎に、
この東洋のコンピューターサウンドで乱舞していたという
(※パンク・ムーブメント以降、NEW WAVEと呼ばれていたシーンの中で、
最も大きな動きをしていたムーブメントで、
〈DURAN DURAN〉などがこのシーンから誕生した)。

 又、イギリス国内からも、「エレポップ」(エレクトロニック・ポップスの略)と呼ばれる
サウンドが。あちこちから聞こえてくるようになり、
(O.M.D、HUMAN LEAGUE、SOFT CELL、HEAVEN 17、etc……)
クラブからDISCOへとまたたく間にテクノ―エレクトリック・ビートが浸透していったのである。

 80年代初期~中期にかけて、DISCOは12インチ・シングルと共に、
よりディスコ向けのサウンドを必要とする様になり、「HI・ENERGY」サウンドが生まれる。

それとは別に、オリジナル・テクノを継承するアーティストとして、〈デペッシュ・モード〉が、
ギ夕-サウンドにテクノロジーを融合することによって
全く新しいダンス・ミュージックを〈ニュー・オーダー〉が奏で、
そのヨーロッパ的なメロディ・ラインを引き継ぎ「ハイ・エナジー」は「ユ一口・ビート」へと変化する。

この辺りでは、<デッド・オア・アライブ〉や〈ペット・ショップ・ボーイズ〉といったアーティスト達が、
あからさまにクラブ/ディスコをターゲットにしたシングルをリリースして、
この日本でも一大ディスコ・ブームが到来する。

 そして「サンプリング」という優れた技術がー連のZTTのアーティスト達を送り出した。
くフランキー・コース・トウ・ハリウッド〉〈アート・オブ・ノイズ〉〈プロパガンダ〉等である。
 同時期、アメリカ大陸では、全く違ったアプローチから、
また新しいダンス・ミュージックが生まれた。
2台のターン・テーブルと1台のディスコ・ミキサーを駆使して、
その上にラップを重ねるといったこのスタイルは「HIP HOP」と呼ばれ、
世界中に猛威を発揮する。
そして更にクラブの黒人クリエイター達は、安物のリズム・マシンをつかい
「HOUSE」という踊るための音楽を作りだすのである
(この時期、初期のクラフトワークの曲や、エレポップの曲などがネタとしてよく使われた)。
 「ハウス・ミュージック」は80年代後半にロンドンに飛び火、
「アシッド・ハウス」が生まれ、人々は更に刺激的なサウンドを求めて
「エレクトリック・ボディ・ミュージック」が急浮上する。
又、アシッド・ハウスから別な流れも派生し「テクノ・ハウス」が誕生する。
「90Sテクノ・レボリューション」である。

 テクノ・ハウスは、よりリラックスできる「アンビエント・ハウス」と、
ベルギー産ボディ・ミュージックを吸収した
「ハード・コア・テクノ」へと二分化する(T99、CUBIC22)。

 ハード・コア・テクノは、イギリス・レイブ(野外パーティー)シーンで一大旋風を巻き起こし、
ヨーロッパ・アメリカへとその威力を発揮(これには〈KLF〉の功績も大きい)。

 スペースの関係上、大まかな流れしか説明出来す、
所々言葉が足りない所もあるが、大体の流れはこういう事である。

 そして「オー・ボニック」登場である。ダンス・ミュージック―テクノの流れを考えれば、
アメリカからこのてのアーティストが出てくるのは当然のことなのである。
しかしながら、当然とは言っても、
オー・ボニックの様なアーティストが沢山いる訳ではなく、
彼等はアメリカ・レイブシーンのパイオニア的存在といえるだろう。

 ニューヨークにあるサウンド・ラボ「ZOO」で作られたそのサウンドは、
テクノのフィーリングを活かしつつ、
更にアメリカの持つダイナミックなエネルギーが注入され、パワー全開に展開されている。
 今後、アメリカからのこういったアーティストは更に増えるであろう。

 70年代後半に誕生した「テクノ」は、様々な文化、歴史を飲み込み、90年代に蘇った。
これから先、ダンス・ミュージックは、よりいっそうテクノヘと向かい、更に加速し続けるであろう。
 日本が「テクノ・サウンド」に覆われるのも、もう時間の問題である。
(クラブDJ 関根信義)

1992年5月21日木曜日

EXIT 100「リキッド」


 たまたま乗ってしまった帰宅ラッシュの地下鉄の中で、
苦しそうにしながらも懸命に雑誌を読み続ける女がいた。
身動きの取れない状況で、視界に入った誌面を眺めていると、
イラスト入りで事細かに書かれたそれは、YMOとテクノに関する記事だった。
普通の女子大生っぽい女の子が読む雑誌にも、
こんな記事が載るほどテクノの復権も本格化したかと驚いた。
電車が新宿に着き、吐き出される人の波に押されて彼女が雑誌を閉じると、
何とそれは”朝日ジャーナル”だった!!!
全共闘をひきずった左翼系保守雑誌(?)になったとはいえ、腐っても朝ジャ。
サブカルチャーには一家言ありかと思ったが、こんな記事が載ろうとは。
心の中で『何故』にハテナが3つ付いた。

 ノスタルジーな口調でテクノが語られるのは、
昨今の『オタク』や懐かしのアニメ、ヒーローなどのメディアでのもてはやされ方と
同一線上にあると考えて間違いないだろう。
いい加減にして欲しい。
テクノは、1~2年の流行りで終わってしまったものではない。
ここしばらくのテクノ・ハウスの起こした激動で、
またテクノに新たな局面が見えてきているこの時代に、YMOがトップ・トピックなのか?
クワドロフォニアの来日公演の客の入りを見るまでもなく、
現在進行形のテクノは、まだまだトーキョーには根付いていないようだ。

 前置きが長くなったが、あなたが手にされたEXIT 100は、
世界に名だたるエレクトロニクス系の老舗ミュート・レーベルが、
フォース・インクというドイツのレーベルとの提携でイギリス・リリースしたアーティストである。
MIKE Ö B.とT. 303 H.という二人組によるユニットだということ以外は全く謎だが、
その切れまくる音の冴えには、一角成らぬポテンシャルを感じる。
やはり、ドイツといえばテクノのオリジネイターであり、
すべての電子音楽は、遡ればそこに辿りつくといっても、過言ではないだろう。

 ハード・コア・テクノの隆盛においては、
活躍の機会を逸し、今やっと一部のDJなどの間で見直されているジャーマン・テクノ。
古くはプログレの頃からその萌芽を見せ、クラフトワークにより全世界的な認知、定着に成功。
コニー・プランク/DAFのハンマー・ビートがマシーナリーな単調さの中に肉体の躍動を織り込んだ。
テクノとは言いがたいが、ノイバウテンの得意な存在感と過激なライヴ・パフォーマンスは、
エレクトロニクス系のアーティストのメタル・パーカッションの導入を加速化させた。
ハウス~ニュー・ビートの出現に際しても、
ZYX、ニュー・ゾーン、ZOTH OMMOG等の数多くのレーベルが、
良質のテクノハウス・サウンドを送り出してきた。
こうして歴史的に振り返ってみても、ジャーマン・テクノ・サウンドは
エレクトロニクス/テクノ・ミュージックの進化の節目節目に、重大な役割を果たしているのがわかる。
テクノ勃興期には彼の地に負けない勢いを誇った日本では、
未だにYMOを超える人材が出ないのとは対照的である。
テクノは、日本の馬鹿メディアで書かれているような、
クラフトワーク、YMO→ハード・コア・テクノという単純で突発的な発生はしていない。
(少なくともハウス以前までは)電子楽器の発展とともに超加速度的に進化した。
確かな流れと、脈々と受け継がれる遺産があるのだ。
その根幹と、重要な骨を形成するドイツからは、ここしばらく会心の一撃が出ていないのも確かだが、
いつ想像を絶する新しい潮流が出てきてもおかしくないのだ。
実際、ここに来てのカウンター・ベルジャンテクノ的な、テクノ・ハウスのリリースラッシュは、
何かを予感させるには十分のパワーが感じられる。



 さて、EXIT 100は如何だろう? このなんとも形容しがたい音は、
聞き手の神経を逆撫でし、発狂へと導くUFOからの殺人音響か? 
それとも電子の迷宮サイバー・スペースに響く子守唄か? 
初期のブリープ・ハウスに共通性を見出だせる異常なまでの音色へのこだわりと、
ストイックなミニマリズムは、一聴して引き込まれる派手さはないが、
エイズ・ウィルスのように、身体の中からじわじわとあなたをノックダウンさせるだろう。
ハード・コア・テクノのように派手な音使いや、
フォーマットに則った曲展開からは決して生まれてこないいぶし銀のうねりが、
メンバー自身のキレ具合を象徴している。
UNSAFE AT ANY SPEED(どんな速度でも危険)と注意が冠されたこの曲は、
まさに荒れ狂う嵐の中を車でとばすような、死と隣り合わせの会館がある。
これから次々リリースされるだろうこのシリーズの前奏曲としては、
恐ろしいほどのパワーを持ったEXIT 100『リキッド』は、
ジャーマン・テクノの新しい夜明けのテーマ曲にも、なるかもしれない。

(KEN=GO→)