1991年6月28日金曜日

The KLF 「ザ・ホワイト・ルーム」

  ボクが初めてTHE KLFと会ったのは忘れもしない90年7月。ロンドン名物の深い霧を思わせる視界があまりきかないある雨の朝、THE KLFの参謀? ビル・ドラモンドと会う。いかにも英国紳士、といった感じの彼は静かな口調で語った。

―――――「チャートNo.1を狙う!」―――――

 と。そして彼は出来上がったばかりのNEWシングルのコピーを1枚、渡してくれた。その曲とは勿論、

♡♡「WHAT TIME IS LOVE?」♡♡♡♡

UKをはじめヨーロッパ各国でビッグ・ヒットを獲得したこのシングル、ビル・ドラモンドの有言実行さを証明した結果となった。

 THE KLFは1987年1月、独創的で攻撃的な2人、ビル・ドラモンドとジミー・コーティーによって開始された。

 ビル・ドラモンドは、1977-1978年にリヴァプールでインディペンデント・ロック・グループBIG IN JAPANを創立した。78年後半にはデイヴィット・バルフィと共に最初のインディレーベルTHE ZOOを設立し、今日の音楽シーンの基礎を築いている。このZOOレーベルからは、BIG IN JAPANをはじめエコー&ザ・バニーメンそしてティアドロップ・エクスプローズなどがレコードをリリースしている。80年代初頭の「リヴァプール・シーン」の発頭人であり、プロデューサー、マネージャー、パブリッシャーとして主に裏方の役目に徹していた。1985年には、1年と50万ポンド(WEAのプロモーション費用)を費やして、現PWLのピーター・ウォーターマンと共に、パンク・ファンク・ロッカーズのBRILLIANTを国際的にヒットするスーパースターに変身させようと努める。BRILLIANTにはジミー・コーティーやブルー・パールでもおなじみYOUTHが在籍していた。もしかしたらビルとジミーの間で、THE KLFの初期的構想がすでにこの時練られていたのかもしれない。アンダーグランドでの評価は高かったもののBRILLIANTは、セールス的には失敗に終った。その後1986年にはクリエイション・レコードから、初めてにして唯一のソロ・レコード「THE MAN」をリリース。後にTHE KLFのアルバム「CHILL OUT」の音楽的コンセプトの一部となったスライド・ギターやカントリー・ミュージックへの傾倒をこのソロアルバムでは色濃く反映していた。

 そしてついに記念すべき年1987年1月を迎えたのである。

 THE KLF元年で1987年の間、ジミーとビルは、JUSTIFIED ANCIENTS OF MU MU(通称THE JAMS)という名前で活動した。それぞれ別称ロックマン・ロックとキング・ボーイ・Dを使って「1987(WHAT THE FUCK IS GOING ON?)」と、「WHO KILLED THE JAMS?」という2枚のアルバムをTHE JAMSとしてリリースしている。彼らの音楽の解釈の中で他のアーティストの楽曲を自由自在に使用することは、アバの「ダンシング・クイーン」における著作権問題で裁判沙汰を引き起こし、THE JAMSのデビュー・アルバム「1987」の未売品すべての破棄という結果に結びついた。続く2ndアルバム「WHO KILLED〜」のジャケットには、この時破棄処分となったレコードを焼く写真が使われている。「誰がJAMSを殺したか?」なんて意味深長なアルバム・タイトルにも彼らの著作権に対する逆説的メッセージが訴えられている。「著作権解放前線」という意の刺激的なネーミングをもつTHE KLFは、現在なお著作権解放をめぐって、抗争の日々を続けている。1988年、ジミーとビルにとっての第2ラウンドの年が始まった。新しいプロジェクトTHE TIMELOADSの名の下、リリースしたシングル「DOCTORIN' THE TARDIS」は公約通りUKナショナル・チャートでNo.1を獲得。“偉大なるポップ・ミュージック”のふれこみで、極めて英国的伝統的要素にあふれた内容であった。しかしTHE TIMELOADSは完全なるONE-OFF(一回限りの)プロジェクトで、これ以後現在に至るまでこれに続く作品はリリースされていない。

 この年11月、12月にTHE KLFの映画「THE WHITE ROOM」の撮影が行われた。この映画は彼らにとって初の35mm本格的アンビエント・ムービーで、監督はビル・バット。これは91年中には完成の予定となっている。

 1989年からTHE KLFとしての活動に専念することになった彼らは「WHAT TIME IS LOVE?」「3A.M. ETERNAL」という2枚のシングルをリリース。ロンドンのアンダーグランドクラブ・カルチャーのテーマ曲ともいえる傑作を世に送りだしたのである。折しもロンドンは、ACIDハウス全盛で、ウェアハウス・レイヴ・パーティー(非合法のアシッド・パーティー)が各地で行われていた。クラブ・チャートもアシッド・ハウスを中心に構成され、寝ても覚めても(冗談ではなく覚めないこともままある)のACID現象はついに社会問題にまで発展していく。「ピースマーク」と「エクスタシー(通称Eというドラッグ)」がクラブ・カルチャーを完全に掌握し、それと共によりいっそう厳しさを増した警察当局からの弾圧で逆にクラブ・カルチャーは地下へ地下へと潜伏していくことになる。そんな中「WHATTIME~」「3A.M.~」は、そのニーズをますます高めていく。特に「WHAT TIME~」は、数多くのカヴァー・ヴァージョンや似たサウンド(今日でもよくある)の曲を生む刺激となり、彼らはその優れたものを集めてひとつのミニ・アルバム「THE WHAT TIME IS LOVE STORY」と名付けてリリースした。この中には後に今日のTHE KLFの成功をフォローしたシングル「WHAT TIME IS LOVE?(LIVE AT TRANCENTRAL)」のアイディアを提供したライヴ・ヴァージョンやACIDハウスのニュービート・ヴァージョン、BODYミュージックのLIAISON D、NEON、DR.FELIXによるカヴァー・ヴァージョンが収録されている。一方「3A.M.~」のリミックスをTHE ORBのアレックス・パターソンが担当していることからもわかる通り、この時期を境にして彼らは自らのサウンドを「アンビエント・ハウス」と呼ぶようになる。

 1990年2月、UK本国よりも日本での人気を確立することになるアルバム「CHILL OUT」を発表。このアルバムは彼らにとって最初のアンビエント・ハウスのアルバムとなる。しかしこのアルバムの基本的コンセプトは彼ら自身のものではなく、THE ORBのアレックス・パターソンがDJイングをしたときに築きあげたアイディアを基にしている。ピンク・フロイド「原子心母」にインスパイアされたジャケットも評判を呼んだ。

 7月、名曲「WHAT TIME IS LOVE?」の彼ら自身によるカヴァー・ヴァージョンをリリースした。S.S.L.コンソールでの擬似ライヴ・ヴァージョンとMCベルOによる極上ラップで踊れる歌えるKLFへと変身した。UKナショナル・チャートで5位、ドイツとスカンディナヴィアでトップ10を獲得し、クラブでの不動の人気を勝ち得たのである。

 1991年1月「3A.M. ETERNAL」のカヴァー・ヴァージョンをリリース。UKシングル・チャートでは、ナショナルチャート、クラブ・チャート共に念願のNo.1を獲得している。現在はこちらもカヴァー・ヴァージョンとなる第3弾シングル「LAST TRAIN TO TRANCENTRAL」がUKチャートを急上昇中である。ここでアルバムの内容にも触れておく。1はシングルのヴァージョンとは違うアルバムのみのミックスで、アンビエント風のアレンジで漂うのもつかの間、いきなり攻撃的で強烈なビートがINN。カッコE!の一言。2は8同様、UK音楽誌「レコード・ミラー」のクールカッツ・チャートで、シングルカットされていないにもかかわらずチャートインしてしまった、という不思議な曲。808ステイト風のテクノハウスに、ディープな女性ヴォーカルがからむ。DJがいかにも好きそうな1曲だ。3はシングルと同じミックスできっと楽しめることだろう。4はとても美しいメロディラインのアンビエント・ハウスで、5の導入部となっている。5は日本盤のみの12インチ・ヴァージョンで、途中でテーマとなるシンセのフレーズに魅了されない人はいないであろう。アルバム中一番のオススメだ。6はアンビエントハウスを心ゆくまで堪能したい向きの人にはたまらないであろう。特にペダル・スティール。傑作「CHILL OUT」を思わせる深いサウンドが従来のKLFファンにも支持されている。7はDUBっぽいノリのアンビエント・ハウス。今年の夏は、この手のDUBがトレンドだ。8も6に似た美しいピアノの旋律をもつ曲。9は実は1のイントロ部にも使われている曲で、結局リフレインしてしまうという彼ららしいコンセプトになっている。この日本盤には101112のボーナス・トラックが収録されている。ターンテーブルをお持ちではない方にはウレシイ企画にちがいない。

 さあ早速THE KLFのパラレル・ワールドへ入り込んでみて下さい!!

NOBBY STYLE
(宇野正展)