2009年7月18日土曜日

Thoroughbreds -Best of R&S


 父親から音楽業界入りを反対され、乗馬のインストラクターや美容師など職を転々としていたレナート・ヴァンデパペリエルがレコード店に勤務しながらレーベルに関わったのは、1983年に1枚のシングルを発表した《ミロス・ミュージック・ベルジウム〉が最初だった。「マーヴィン・ゲイやジャイムズ・ブラウンのようなソウルやファンクが好きだったんだよ」レナートは当時をそう回想している。「ベルギーからファンキーでソウルフルな音楽が出てくることを望んでいたんだ」

  彼の悪名高き“フェラーリ好き”は、レーベル名をフェラーリ・レコーズと改名させたりもしたが、しかしレナートに幸運がやってくるのは、フェラーリの飛び馬をロゴ・マークにして、自分と妻(サビーン・マース)の名前のイニシャル(R&S)をレーベル名としてからだった。80年代後半のニュー・ビート(当時のヨーロッパで起きた新しいダンス・サウンド)、シカゴからのアシッド・ハウスといったアンダーグラウンドな動きを積極的に受け入れたR&Sレコーズは、抜け目なく、時代の変化を逃さなかった。

  始動してからしばらくは主としてニュー・ビート系の作品を出していたR&Sレコーズだが、1989年にデリック・メイの「R-them(アルセム)」をライセンス・リリースするとレーベルはじょじょにハウス系に的を絞っていった。1990年にはシカゴのフィンガーズ・インク「I'm Strong」やデトロイトのサバーバン・ナイト「The Art Of Stalking」を、あるいはベルリンのサン・エレクトリック「O'locco」やイギリスのネキサス21(後のオルターン8)「Logical Progression」といった次世代のヨーロッパにおけるテクノ作品をライセンス・リリースした。

  もっとも、ベルギーの小さな田舎町ヘントがテクノ革命の中心になるのは、(当時はメタル・ハウスなどとも形容された)ジョイ・ベルトラムの「Beltram Vol.1」を発表してからだった。あるいはセカンド・フェイズ「Mentasm」、スペクトラム「Brazil」、メンタル・オーヴァードライヴ「12000AD」、ヒューマン・リソース「Dominator」、そしてベルトラム「Vol.2」や「The Omen」……レーベルはダンス・シーンに“ハード・テクノ”という新機軸を取り入れることで大いなる賛否両論を呼んだが、そのことで新しいリスナーを獲得したのも事実だった。また、R&Sレコーズは幻想的でなかば怪奇趣味めいた絵画をスリーヴ・アートにしたが、これは当時のダンス系の12インチとしては異例のことだった(それは当時、レコード店に行ったときに強力に作用した)。それから……1992年になるとR&Sレコーズは当時はまだ無名の、しかしその後10年のエレクトロニック・ミュージックを定義してしまう天才の作品を発表する。そう、若干20才のエイフェックス・ツインによる「Digeridoo」だ。デトロイト・テクノとハードコア"の溝を埋める永遠のクラシックである。

  R&Sレコーズはこの頃ヒット作を多く出している。先述したハード・テクノを含め、C.J.ボーランド「The Ravesignal」、ジャム&スプーン「Stella」、ジェイディー「Plastic Dreams」。そしてなんと言っても『Selected Ambient Works 85-92』だ。僕はいまでも1992年の暮れ、渋谷のWAVE店内の壁にあの白いジャケットが並んだときのことを憶えている。時代は変わり、この頃、R&Sレコーズはテクノ・シーンの先導者となった。シェフィールドのワープ、あるいはロンドンのライジング・ハイ、あるいはベルリンのトレゾアーーこれらレーベルとともにR&Sレコーズはアシッド・ハウス以降のテクノ史学における重要項目のひとつとして記憶されることになるのだった。

  このコンピレーションは、レーベルの膨大なリリースのなかから歴史的な重要性と評価の高さを基準に、アルバム全体の構成を考慮しながら最終的には僕の主観で選曲したものである。ベルトラムの「Energy Flash」のようなあまりにも有名な曲や、当時ヒットしたものの現在のダンスのトレンドとは著しく離れているものは避けたし、また、収録したくても現在レーベルに権利がないものは、当たり前だが、諦めざるえなかった。初期のエイフェックス・ツインの作品やデトロイト・テクノへの偏愛は間違いなくこのレーベルの個性であるけれど、「Beltram Vol.1」や「Vol.2」の怪奇趣味のスリーヴ・アートや、あるいはジェイディーの「Plastic Dreams」やジャム&スプーンの「Stella」ないしはゴールデン・ガールズの「Kinetic」のようなユーロ・トランス・テクノ・サウンドにこそ僕は深い懐かしさを覚えるのである。

  以下、簡単に解説する。

01. APHEX TWIN - Analogue Bubblebath
リチャード・D・ジェイムスの最初のリリースで、オリジナルは1991年にマイティ・フォースから出ている。それはトム・ミドルトン (後のグローバル・コミュニケーション)が参加した唯一のシングルでもある。R&Sレコーズはのちにこの曲をライセンスして、 『In Order To Dance 4』に収録している。デトロイト・テクノの影響を受けた初期の傑作のひとつだ。

02. DJ HELL - My Definition Of My House Music
のちにインターナショナル・ディージェイ・ジゴロを立ち上げ、ニューウェイヴ・リヴァイヴァル、エレクトロクラッシュを先導することになるDJヘルの1992年に発表した最初のシングル。シカゴのロン・トレントあたりのメロウな感覚がうかがえる。

03. DAVE ANGEL - Brother From Jazz
デイヴ・エンジェルはC.Jボーランドやソースらと並んで、初期R&Sレコーズにおける看板アーティストだった。デビュー作は1991年の「1st Voyage」で、1992年にはヒット作「Stairway To Heaven」を発表している。収録曲は1993年にサブレーベ ル、アポロから発表した「The Family EP」から。彼のジャジーでデトロイティッシュなフィーリングがよく出ている。 

04. THOMAS FEHLMANN - Flow, Form and Spiral.
ベルリン在住のトーマス・フェルマンは、いまではアレックス・パターソンによるジ・オーブのメンバーとしても知られているが、 彼のキャリアは古く、80年代初頭のドイツのニューウェイヴ・バンド、パレ・シャンブルグにまで遡る。90年代初頭は、のちにベーシック・チャンネルで一世を風靡するモーリッツ・フォン・オズワルドとの3MBプロジェクトによってデトロイト・テクノとの 共作を数枚発表するが、フェルマンが自分の本名で作品を出すのは、1994年にR&Sレコーズからリリースされた「Flow EP」が最初だ。収録曲は同シングルから。

05. SPEED JACK - Storm
LFOのマーク・ベルの変名プロジェクト。この名義でベルは、R&Sレコーズからはじつに3枚のシングルと1枚のアルバムを 出している。収録曲は1994年にリリースされた同名のシングルからで、これは日本でも石野卓球らがプレイして、フロアヒットしたことをよく憶えている。00年代に再発されている。

06. JAYDEE - Plastic Dreams
オランダのベテラン・プロデューサー、ロビン・アルバーズのプロジェクト、ジェイディー(もちろん夭折した同名のデトロイトの ヒップホップ・プロデューサーとは人違い)による1992年の大ヒット作。翌年にはリミックス盤もリリースされた。僕にとっても、あるいは当時のダンスフロアを知る者にとっても忘れがたい1曲である。これもまた00年代に再発されている。

07. SUN ELECTRIC - Beauty O'locco
ベルリンのトム・スィールとマックス・ローダーバウダーのふたりによるアンビエント・プロジェクトで、この曲は最初アレック ス・パターソンとユースが主宰したワウ・ミスター・モドから発表され、当時のアンビエント・ハウス・ブームに乗ってカルト・ ヒットしている。同曲が1990年にR&Sレコーズからリリースされてからは、サン・エレクトリックはこのレーベルを拠点に活動する。1993年には『Kitchen』、1995年には『30.7.94 Live』といった素晴らしいアルバムを残している。

08. GOLDEN GIRLS - Kinetic (David Morley Remix)
この曲に関してはオリジナルを選ぶかこのアンビエント・ヴァージョンにするか、ずいぶん迷ったが、結局こっちにした。1992 年の大ヒット曲のひとつで、作者はマイケル・ヘイゼルとポール・ハートノル(オービタル)。オービタルによるリミックス、フランク・ド・ウルフによるリミックスも有名だけれど、僕はこの長ったらしいデヴィッド・モーリーによるトランシーなアンビエント・ ヴァージョンが気に入っている。ベルギー在住のイギリス人のモーリーは、レナートの旧友でもあり、ニュービート時代の R&Sレコーズからレナートとともに活動してきたプロデューサーである(スペクトラムはレナートとモーリーのプロジェクトだった)。

09. MODEL 500 - Be Brave
レナートのデトロイト・テクノへの偏愛は有名だ。彼はホアン・アトキンス=モデル500の素晴らしい作品をいくつか発表している他、カール・クレイグの69名義の決定的なフューチャー・テクノ・ファンクも数枚リリースしている。モデル500に関してはR&Sレコーズからベスト盤『Classics』(1993)、シングル「Sonic Sunset」(1994)、アルバム『Deep Space』(1995)といっ た傑作を出しているが、収録曲はアルバム『Mind And Body』(1999)に先駆けて1998年にリリースされたシングル曲。素晴らしい曲であるのにかかわらずリリース当時はテクノ・ファンからあまり相手にされず、しかしフランソワ・ケヴォーキアンがリミックスしたことでハウス・ファンからは初めて支持された曲だった。もちろんモデル500はR&Sレコーズに多数の名曲を残しているし、そもそも収録曲においてこの曲をのぞく他のすべてが90年代半ば以前の年代をそろえるべきだったのか もしれないが、ひとつぐらい歌モノを入れたかったこと、あるいは00年代のフィーリングを先駆けていたということもあって、 あえてこの曲を選んだ。

10. LOCUST - Neil's Armsong
ロンドン生まれのローカストことマーク・ヴァン・ホーエンは、R&Sレコーズがエイフェックス・ツインに次ぐ才能として期待し たプロデューサーだった。収録曲は1994年にアポロからリリースされたデビュー・アルバム『In Remembrance Of Times Past』から。その後も3枚のアルバムを出している。
(野田努)

2001年6月19日火曜日

ザ・プロディジー 「エクスペリエンス:エクスパンデッド」

 


 僕がThe Prodigyのライヴを初めて見た場所は芝浦のジュリアナ東京だった。たぶん'93年だったと思う。ジュリアナ東京はその頃一世を風靡していたゴージャスなディスコで、ボディーコンシャス&ミニスカートのお姉さんがお立台に昇って扇子を振りまくるという、かなりきわどい路線を看板にしていた。'80年代から続いていたバブル文化の象徴的存在だったと言ってもよい。そこではなぜかハードコア・テクノが人気だったので、The Prodigyはその流れでブッキングされていたのだ。とはいえ、ジュリアナ東京で人気だったハードコア・テクノは、ユーロビートの延長ともとれるような4つ打ちキックが”ドンドンドンドン”って鳴ってるような曲だったので、僕は最初この話を聞いた時、頭の中に“?”が100個位出たのを覚えている。実際のライブはその“?”にたがわぬ結果で、最初は盛り上がっていたお姉様達が彼らの複雑なリズムに全くノれず、次から次へと脱落していく様は不謹慎ながら爽快な眺めであった。最前列にはたぶん20人位の場違いな正当派レイヴァー達もいた。The Prodigyの日本デビューはこのように大きな誤解とわずかな正解(?)が入り乱れたものだったのだ。

 The Prodigyは'90年、UKで結成されている。メンバーは、ヒップホップに傾倒し、DJとしても知られていたサウンド・クリエイターのリアム・ハウレット、ヒッピー・カルチャーに大きく影響されたダンサー/MCのキース・フリント、ジェームス・ブラウンを師と仰ぐダンサーのリーロイ・ソーンヒル(2001年に脱退)、レゲエのサウンド・システムで活動していたマキシム・リアリティーの4人だ。バンド名は有名なモーグ・シンセサイザーの1機種からリアムがつけたらしい。

 結成直前の'80年代後半、UKのクラブシーンでは激変が起きていた。シカゴで生まれたハウス・ミュージックが上陸、それまでUKのクラブを支配していたスノッブでファッショナブルなヴァイブを更新してしまったのだ。ミニマルかつメカニカルなハウス・ビートに身をゆだね、汗だくになって踊ることは、クラビングのメインストリームとなった。その波が徐々に大きくなり爆発した結果、生まれたのがレイヴだ。野外の会場に数千人もの人を集め一晩中踊り明かすレイヴは、その“Love&Peace"な雰囲気とアナーキーさから'60年代のヒッピー文化や'70年代のパンクと対比されるほどの大きなムーヴメントとなり、'90年代前半のUKを席巻した。そのヴァイブは世界中に飛び火し、ヨーロッパはもとよりここ日本やアメリカにも波及、'90年代を世界的"ダンスミュージックの時代”へと導いた。

 ここに御紹介する『Experience:Expanded』は、The Prodigyのデビュー・アルバム『Experience』にリミックスやシングルのB面を加えた増強盤だ。UKのアルバム・チャートで10位を記録、25週間に渡ってチャートに居座り続け、ゴールド・ディスクを獲得した'92年リリースのこの作品には、The Prodigyがレイヴ・シーンを代表するハードコア・バンドへと成長していく軌跡が完璧に収録されている。

 中でも注目は「Charly」だろう。'91年リリースのこの曲は、彼らのセカンド・シングルで、ポップチャートの3位を記録する大ヒットとなっている。The Prodigyに最初のブレイクをつくった最重要作品だ。サンプリングされているのは、'70年代につくられた子供向け教育映像の台詞「チャーリーが"どっか行く時は必ずママに言ってからね”って言ってた」とその登場人物のネコ“チャーリー”の泣き声。なんでもこの教育映像はUKの若者の間ではかなり有名なものらしく、そのキャッチーさと、これがレイヴでかかるというミスマッチ感覚もヒットのきっかけとなったようだ。ちなみに『Experience』の方には"Trip Into Drum And Bass"ヴァージョンが収録されているが、ドラムンベースが大ブレイクする3年も前に彼らはこのリズムとジャンル名を早々と使っていたことになる。一方、『Expanded』に収録されている"Alley Cat Remix"はシングル・ヴァージョンで、やっぱりこっちが好きという人も多い。

 続いてリリースされた「Everybody In The Place」はデビュー・シングル「What Evil Lurks」のB面に収録されていた曲のニュー・ヴァージョンで、こちらもポップチャートの2位という異例の大ヒットとなった。爽快なシンセリフとその場に居合わせた人すべてを盛り上げてしまう単純明快なMCは『Expanded』11曲目のシングル・ヴァージョンで堪能できる。

 フォース・シングルは「Fire」と「Jericho」のカップリング。「Fire」は'60年代末~'70年代前半に活躍したサイケ・ロック・アーティスト、アーサー・ブラウンの「俺は地獄の火の神、お前に火を与えよう」というサンプルが印象的だ。なんでも、この人は頭のヘルメットから火を吹くというキース顔負けのパフォーマンスが売りだったらしい。

 そして、ファンの間で傑作と言われているのがマックス・ロメオ/リー・ペリーの手による「Chase The Devil」を大胆にサンプリングした「Out Of Space」だ。The Prodigyとレゲエの組み合わせを意外に思う人もいるかもしれないが、UKのレイヴ・シーンにおいてレゲエの影響力は極めて大きい。ジャマイカ系移民のサウンド・システムが、レイヴのルーツにあることを忘れてはいけない。

 このアルバムからは最後に「Wind It up」がシングル・カットされた。オリジナル・アルバム12曲から5曲のシングル・カット、しかもそのどれもが成功をおさめたという事実は、一発屋ばかりだった当時のクラブ・シーンに衝撃を与えた。そう、The Prodigyは間違いなくこの時代を征したNo.1ハードコア・バンドだったのだ。

 さて、ここまでThe Prodigyをレイヴ・ミュージック=ハードコア・バンドとして紹介してきたが、サード・アルバム『The Fat Of The Land』で彼らを知った人には、かなりの違和感かもしれない。「The Prodigyはデジタル・ロックじゃないの?」っていう疑問も出るだろう。しかし、The Prodigyがロックへと接近するのはセカンド・アルバム以降なのだ。このデビュー・アルバムには、むしろヒップホップやファンク、レゲエといった彼らのルーツであるブラック・ミュージック側の視点から、あるいはパンクに匹敵する革命的ムーヴメントとして、レイヴを捉えた時代感覚が詰め込まれている。

 '90年代初頭はそれまでのダンス・ミュージックがハウスやレイヴの名のもとに融合、そこで様々な実験が行われた時代だった。アンダーワールドやケミカル・ブラザーズもここから生まれているし、プライマル・スクリームもこの時代を通過して成長した。そんな中でThe Prodigyがそこから歩んだ道は極めて特異なものだ。セカンド・アルバム、サード・アルバム、そしてフォース・アルバム『Always Outnumbered,Never Outgunned』と聴いてみれば、その意味はより明確になってくるだろう。かつて、ここまで進化したダンス・バンドがあっただろうか?

(トモ ヒラタ/LOUD)


1999年3月25日木曜日

エレクトリック・ミュージック「エスペラント_プラス」


エレクトリック・ミュージックの本題へ入る前にお約束のクラフトワークの話をすこしばかり‥。


それにしても昨年(98年)はちょっとしたクラフトワーク旋風が巻き起こった。なんといっても強烈だったのは17年ぶりの来日公演。赤坂ブリッツで3日間行われた公演は連日満員礼で、これだったら武道館でも出来たんじゃないかというくらいの盛況だった。個人的にはスペインでもライヴを見る機会があってまさに感無量この上無い体験だった。クラフトワークへの熱狂ぶりというのは何も日本だけでなく、あらゆる国でズバ抜けた支持が感じられる。仕事の関係でいろんな国の中古レコード屋を回っているが、どこへ行ってもクラフトワーク関係のレア盤は高いのなんのって(笑)。もう切が無いので完璧にコレクションするのはとっくに断念しているが、値段が高いということはそれだけ需要があるということで彼らの世界的なカリスマぶりが伺える。91年の「THE MIX」以降、正式なクラフトワークとしてのリリースは無いものの(余談だが、97年にEMI、クリングクラングからオフィシャルもの限定250セットの4枚組BOXセット+Tシャツがリリースされた。トライバル・ギャザリンでのライブを記念したものでトランス・ヨーロッパ・エキスプレスのインスト・ヴァージョンも収録されている。さらに後に4枚のシングルをバラして1000枚ずつプレス。これは一応正式リリースということになるのか??)ラルフとフローリアンのオリジナル・メンバーを残してカールとウルフガングが相次いで脱退しソロプロジェクトを進行している。


そろそろ本題に入っていくが、周知のようにこのELEKTRIC MUSICがカール・バルトスのグラフトワーク脱退後のユニットだ。今回リリースされたこの「エスペラント~プラス」は93年にリリースされたファースト・アルバム「エスペラント」(独SPV 084 92832)をリマスタリングしなおして、さらにボーナス・トラックを6曲加えたもの。日本だけの独占企画盤ということだ。まずリマスタリングに関してだが、大袈裟な変化は無いもののさらなる微妙な音の処理が施されているものと思われる。クラフトワーク時代もそうであったが、微妙に音が違うヴァージョンが何種類も存在している故にその伝統を引き継いだものか。今ぼくの手元にあるのは試作段階のカセット・テープだが、微妙にサウンド処理が違うと思われる箇所がいくつか認められた。オリジナルの「エスペラント」をお持ちの方は2枚同時にプレイしたりして微妙な違いを発見して楽しんでみて下さい。参加アーティストはカール・バルトス御大の他に70年代末にヴァージン・レコード傘下のディンディスク(モノクローム・セットやマーサ&ザ・マフィンズ等も在籍)からデヴューしてエレクトロ・ポップを先導してきたOMDことオーケストラル・マヌヴァーズ・イン・ザ・ダークのアンディ・マクルスキーがヴォーカルで、さらにクラフトワーク時代からの付き合い、エミール・シュルツがアートワークを担当している。ミキサーはステファン・イングマン、続いてポーナストラックだかELEKTRIC MUSICのシングル盤を輸入盤でお持ちの方はお分かりだろうが、9曲目から12曲目までは93年にリリースされた3枚目のシングルにあたる「ライフスタイル」(ASPV 055-93853)からのもの、13曲目と14曲目は92年にリリースされたファーストシングル「クロストーク」(ASPV 056-110363)からのものである。なお「ベイビー・カム・バック」は1968年のエディー・グラントによるファンキー・ロック・パンド、イコールスのヒットでおなじみのクラッシク・ロックン・ロール・ナンバーのカバー。ちなみにこの曲だけエンジアはジョン・カフェリーが担当している。そういえば賛否両論(否の方が圧倒的に多い?)のセカンド アルバム「エレクトリック・ミュージック」のオールディーズ・ロック志向はこの段階で既に見え隠れしていたといえるのではないだろうか。「べイビー・カム・バック」はシングル「クロストーク」に収録される以前にイギリスの有名な音楽誌ニュー・ミュージカル・エキスプレス(NME)による編集盤の三枚組CD「RUBY TRAX」(英NME 40 CO)に収録されていたものである。


さて、このアルバム「エスペラント〜ブラス」に収録されている音源は92、3年頃のものであるが当時始めていた時の印象というのは正直言うとちょっと古臭いなというのが本音だった。というのも時代はテクノ新世代が台頭してきており、エイフェックス・ツインだのケン・イシイだのアンダーグラウンドレジスタンスだの新たな方向性を提示する若いテクノ・クリエーターが次から次へと名乗りあげてきていた状況だったからである。次から次へとハウス・ミュージックの流れを汲んだテクノサウンドがクラブなどでもてはやされ、80年代的なメロディアスなエレクトリック・ポップ、あるいはテクノ・ポップといった類が妙なレトロ感を臭わせていたのである。本家クラフトワークでさえ「THE MIX」ではハウス的なアレシジ(とはいってもあくまでもクラフトワークはクラフトワークの音になってしまうのだか)を大胆に取り入れ時代の流れを取りこもうとした。そんな現期の中、このELEKTRIC MUSICはもろにストレートにテクノポップのド真中に入ってきたので本当に惑ってしまったのだ。だが、こうして改めて聴きなおすと妙にしっくりとくる、故器に帰ってきたかのような安感があるのである。ぼくの世代はウルトラヴォックスやヒューマン・リーグ、ヘウン17、ゲイリー・ニューマン、デベッシュ・モード、ヴィサージ、ソフト・セル・・・挙げれば切が無いが、そういったサウントを思いて育った。特にOMDのアンディの声を悪いた時に思わずニヤリとした方は同世代でしょう。「エスペラント」は最近には無い聴ける音楽、そう音楽が聴けるのはあたりまえだが、しっかりとを腰を据えて聴いていたいエレクトロニック・ミューシックなのだ。ポップスの黄金時代なんてのがあったとしよう、カール・バルトスがこのELEKTRIC MUSICで表現したかったのはそのポップスのすばらしさ、メロディの楽しさではなかっただろうか。エレクトロニックなスタイルはそれを表現するための一つの手段ではなかったのだろうか。特にセカンド・アルバムを思いた時にぼくはそう思った。カール・バルトスが若い頃心打たれたロックンロール、オールディズ・ポップス、シンプルでしかりとしたメロディこそがELEKTRIC MUSICの一番の特徴でありすばらしさであるだろう。思えばクラフトワークのあのメロディ・センスのすばらしさはカール・バルトスの手前によるところが多いのは確かた。だれもが口ずさめるメロディ、シンプルなコード・ワーク、軽快なビート、やはりクラフトワークでカールの存在というのは大きなものだったに違いない。ELEKTRIC MUSICではその音楽的な部分をさらに発展させたユニットだといえるだろう。そういった点では本当に何か忘れていた感覚を蘇らせてくれる、そんな作品なのだ。昔は良かったなんて言うつもりはこれっぽっちも無い。今がいいに決まっている。そう思いたいし、実際にそうありたい。だが世紀末の混法とした時代にはもう一度自分の辿った道を振り返るのも重要である。本当に今の時代は全くもって混沌としすぎている。今だからこそ改めてこのELEKTRIC MUSICを素直に受け入れられる気持ちになったといえるだろう。テクノというジャンルももはや取り望めのないくらいに幅の広いものとなった。エレクトロニック ミュージックだけでほくらは十分にいろいろな表情を楽しめる。アンビエント、テトロイト・テクノ、シカコハウス、プログレッシヴ・テクノ、ゴア・トランス、ミニマル・テクノ、ドラムン・ベース、エレクトロ、ビッグビート、ブレイクビーツエレクトロニックのカテゴリーはもうロック以上に広がったのではないか? そんな中にELEKTRIC MUSICのようなサウンドがあってもまったく和感は無い。そう、今だからこそ。


ELEKTRIC MUSICはセカンド アルバム「ELECTRIC MUSIC」を昨年リリースしたが、次の予定は今のところ不明、そういえばカール・バルトスがクラフトワークの「ツール・ド・フランス」をセルフ(?)カバーし「ツール・ド・フランス98」としてリリース(TOUR DE FRANCE RACING HITS 211(WARNER 398424027-2)という2枚組のコンビ)しているという情報があるか残念ながら私はまだ現物を持っていない。最後に、このCDに収録の「CROSSTALK」、「TV」、「LIFESTYLE」はプローション・ビデオが作られており、カールも顔を出す楽しいものなので根会があれば是非まとめて日本でりリースしていただきたいものだ。

(佐久間英夫)


1998年10月21日水曜日

ハードフロア 「TBリサシテイション」


  やっと、ようやく、遂に、5年もの時を経て、テクノ・アルバム史上十本の指には間違いなく入るであろうこの名作が日本盤でリリースされた。めでたい。

 あの頃、まだ右も左もわからなかった時代、遥か遠いドイツでこんなカッコイイことをやってる連中は、ホントに憧れの的だった。某出版社で編集の仕事をやってた僕は、片手間とは思えない労力を費やしてミニコミを作ったりして、その過程で当時はまだ“電気グルーヴのラップのひと”だと思ってた卓球や、渋谷のシスコにひとりでテクノ・コーナーを作って頑張ってた佐久間くんや、「宝島」とか「パンプ」といった商業誌で無謀なテクノ記事を展開してた野田さんや、YMOに憧れて入社したアルファー・レコードでなんとかテクノを盛り上げようとしていた弘石くんに出会っていた。仕事の畑はバラバラながら、テクノに対する熱は異常なほどだったこの辺の連中みんなが、一様にノックアウトされていたのが、このハードフロアのデビュー盤だった。

 そうこうしてるうちに毎週末が狂乱の宴だった93年のトランス・サマーも過ぎ去って、みんなが何かを本腰でやろうとし始めていた94年に突入する。その年、たぶん日本のテクノ・ファンにとって一番の驚きは、まさに絶好調を極めていたハードフロアが来日したことだったろう。当時卓球がやっていたパーティー<TAB>のスペシャル版として、日本盤もリリースしてない彼らが来日、東京、大阪、福岡のツアーをやってしまったのだから。

 僕はあのとき、ツアコン兼通訳として全行程に同行したけれど、あれほどハードな一週間もなかった。あのときはホントに死ぬんじゃないかと思ったけど、今思い返すと、手作りで手探りで楽しい珍道中だったような気もする。

 さて今回何を書こうかと思い、いろいろ悩んだ。でも、今さらこのアルバムの音をここでうんぬん言うのもアホらしい。まだ一度も聴いてないひとは一刻も早く聴くべきだし、もう何回も聴いてるひとは懐かしさとともに新たな発見をするためにまだ何回でも聴くべきだと思う。だから、今回は、このハードフロアの日本初上陸のときの、いろんなエピソードを思い出せる範囲で紹介したいと思う。当時フロアで騒いでいたひとたちには記憶と重ね合わせて楽しんでもらえるだろうし、新しいファンのひとには、新鮮でオモシロイ話だろうから。

 あらかたの大物アーティスト/DJが来日しつくした感のある今では信じられないかもしれないが、当時のテクノには情報もパーティーも、何もかもが不足してるような状況で、もちろん海外のDJのプレイが聴けることなんてめったになかった。卓球のたっての希望もあって、夏にフランクフルトまで足を伸ばして直接交渉し、ハードフロアの来日の確約をとりつけてきた。この黄色アルバムの後も、ミニ・アルバム「ファナログ」、シングル「フィッシュ&チップス」をヒットさせ、波に乗りまくっているという時期に重なっての来日。それは1994年9月のことだった。

 9月14日水曜日、朝から車でオリヴァーとラモンを成田に迎えに行く。噂通りの凸凹コンビぶりで、人混みの中でも即みつかる。オリヴァーはライヴだけでなくDJもやる予定が組まれていたが、出てきた荷物の中で彼のレコード・ボックスの取っ手の部分が破損。いきなりクレームを付けて弁償してもらえるかどうかの交渉に入る。前途多難。車で東京へ向かうあいだ、ずっとはしゃぐオリヴァー。対照的に静かなラモン。ショッピングの予定などをいろいろ考えるオリヴァーに向かって、「ボクは寝る」と言うラモン。オリヴァーは「こいつはこういうつまらん性格なんだ」と一言。

 その夜、時差ボケと買い物疲れでバテバテのふたりに、取材が数本。いきなり不機嫌なふたり(でも取材ではハードフロアの名前の由来や、初めて303を使いはじめたころの話などが聞けて面白かった)。前途多難。でも大好物のマクドナルドに連れて行くと、なぜかハッピー。マクドナルドに救われた夜。でも、その後毎日マクドナルドを食べることになろうとは…。

 9月15日木曜日(祭日)、午後からリキッドルームでセッティング。ふたりはともかくセッティングなんて5分で終わると力説。なるほど、ライヴの機材はアナログ・シンセ1台、303が2台、サンプラー1台といった超シンプルなものだった。この日は、通常の夕方からのライヴ時間で、深夜にはイヴェント終了だった。しかし、初ライヴお披露目ということで、ステージ袖にはたくさんのギャラリーがいた。1曲目がはじまると「オー!」というどよめき。ふたり横に並んで、頭を振りながらつまみを動かすあの独特のステージ。そしてお馴染みの曲の連発(もちろんほとんどがこのアルバムからのセレクション)! ホンモノだった。背筋がゾクゾクする感じ。呼んで良かったと誰もが思ってた。イヴェント終了後は焼鳥屋で会食。当時憧れの的だったラモンに、機材のことや古いドイツのエレクトロニック・ミュージックのことなど、質問をぶつけまくる卓球。このとき、実はラモンはアシッド・ハウスどころか、他人のレコードを全然聴かないことが発覚。彼は生粋の職人だった(だからべリーニとか平気で作れちゃうんだよね)。

 9月16日金曜日、リキッドルーム2日目。この日は深夜から朝までのクラブ・イヴェント。よって昼間はオフ。オリヴァーがスニーカーを買いたいというので、渋谷、原宿をさんざん歩くがサイズが合わず断念。かなり不機嫌になるオリヴァー。前途多難。パスタが食べたいというふたりを、まともなイタリアンの店に連れて行こうとすると、そういう店じゃないと言われ、なぜかイタトマで夕食。その後会場入り。前日を上回る超満員の客入りに、関係者全員驚き。この日は、卓球→ハードフロア→僕→オリヴァーという順番でプレイしたと思う。とにかくめちゃくちゃな盛り上がりで、特にライヴの時は轟音のような歓声が飛び交ってた。さすがの卓球もこのときばかりは満面の笑み。楽屋では卓球を交えて、3人が303を手に雑誌用の撮影。これはなかなか壮観だった。

 9月17日土曜日、ほとんど寝ずに新幹線で大阪へ移動。スタッフは機材車が出ないとかで、全員で手分けして機材を持って乗り込んだ。大阪と福岡はちょうどいい会場がないので、夜はコンサート・ホール、深夜からクラブでという変則的なイヴェントだった。大阪のコンサート・タイムではライヴ前にDJした卓球がラストに“サーカス・ベルズ(ハードフロア・リミックス)”をかけたのに全然盛り上がらず、不安なままライヴ・スタート。不安が的中してライヴもいまひとつの盛り上がり。でも、フミヤが仕切ったロケッツでのアフターアワーは、バリバリに盛り上がって一安心。オリヴァーのDJは、みんなが一目置く、渋いシカゴ・アシッド中心のプレイだった。そういえば、行く先々でファンに追いかけられ、サインをねだられたふたりは、「アイドルになったみたい!」とほざいてた。同日に大阪でライヴしていた某人気ロック・グループの追っかけが新大阪駅で待ちかまえていたのを見て、自分たちのファンだと思ったほど(笑)。

 9月18日日曜日。休む間もなくこの日は大阪観光。口レックスのバッタもんが欲しいというオリヴァーのために、フミヤと探し回る。その後、ファンの子ふたりと合流して、セガのジョイポリスへ。エアホッケーのフミヤVSオリヴァーはどっちが勝ったか忘れたが、勝ち気なオリヴァーはどんなゲームもかなりマジに勝負を挑んでた。対してラモンはまったくゲーム系ダメなのが面白かった。遅い夕飯の後、ラモンは寝たらしいがオリヴァーはさらにスタッフと夜の街へ繰り出して飲み続けた...。

 9月19日月曜日、新幹線で福岡へ移動。スタッフ全員の疲労が色濃い。イヴェントは月曜日だというのに大入りで、かなり盛り上がってた。ハードフロアのふたりは、この日が一番機嫌が良かったように思う。心配されたクラブ・イヴェントもそこそこの入りで、フミヤやオリヴァーのプレイで盛り上がった…はずだが、僕は途中で疲労のため爆睡。気付くと横でラモンとオリヴァーが心配してくれてた(笑)。

 9月20日火曜日、飛行機で東京へ。原宿でキディー・ランドへ行った後、ビンテージ・シンセの店へ。ここでそれまでまったく買い物に興味を示さなかったラモンの目が輝きまくる。あれこれ質問するわ、あらゆる機材をいじり倒すわ、大変な騒ぎだった。記念撮影に応じたり、ラックマウント用に中身を抜き取ったTB-303のケースだけを「インテリア用に」と3つも購入。その後、別の店でラモンはローランドのシステム100Mを買っていた。その夜は当然のように深夜までどんちゃん騒ぎ。翌朝早く、成田からデュッセルドルフへ彼らは帰っていった。そのときの「サイコーだったぜ。また絶対来るよ」って彼らの言葉は嘘ではなく、その後も何度も日本へやって来て、ファンを喜ばせてくれた。

 しかし、その後の彼らのステージを観たが、やっぱりこの最初のときのインパクトに勝るものではなかった。もちろん、何度も同じアーティストのライヴを観たら慣れてしまうし、新鮮味が薄れるという意味でも最初が一番良く感じるのかもしれない。でも、それだけではない、何かスペシャルなものが、あのときのステージにはあったような気がする。1+1が3になったような、すべてのパズルのピースがいっぺんにはまったような、どこからともなくパワーがみなぎってくる感じ。同じようなスペシャルなものは、このアルバムからも感じられる。何度聴いても飽きないし、初めて聴いたときの感動が蘇ってくるのだ。

 長いことリリースが噂されながら、なかなか発表されなかったニュー・アルバムでは、ぜひこの最初の会心の一撃を吹き飛ばすくらいのものを投げかけて欲しい。同じように自分の最初の作品を超えられなかった師匠スヴェンが、今年『フュージョン』という起死回生の大ヒットを放ったのだし。

(1998.8.23 Ken=Go→)

1996年1月26日金曜日

ムービング・シャドウ-クロニクルズ・オブ・ハードコア


  クラブDJやレコード・コレクターの大部分は、レーベル買いができるレーベルを個々にそれぞれ持っている。それが、ハウスだったり、テクノだったり、ヒップホップのレーベルであったり、ジャンルに違いはあるが、それぞれ信頼できる良質のレーベルという共通点がある。この信頼という2文字がポイントで、ここで言う信頼とは、確固たるポリシーを貫き通していること。おのずとレーベルのアイデンティティある音をイメージできることが必然的に必要になってくる。商売や金儲に色気を出さず、こだわりを持ったリリースに撤する本物志向なレーベル。このような条件を満たすレーベルは、数少ない。これからご紹介するMOVING SHADOWは、ジャングル・レーベルの中で、多くの人達から、信頼できるレーベルの筆頭にあげられているレーベルだ。「メロディが美しく、芸術的。それでいて、DRUM&BASSもクラブ・ユースで、しっかりしている。」MOVING SHADOWのサウンドイメージに対し、このように答えるジャングリストは多い。(余談だが、僕も95年において、アナログ盤を最も多く購入したレーベルでもある。もちろん僕にとっても、レーベル買いを安心してできる数少ないレーベルのひとつだ。)レーベルのしっかりとしたサウンド・イメージを定着させるには、実際にサウンドデザインが描け、音楽にかなり精通した知識の持主の存在が要求されるMOVING SHADOWでは、レーベル・オーナーであるロブ・プレイフォードが自らその大役を担っている。

 1985年ぐらいから、ヒップホップのクラブDJとしてDJデビューしたロブは、後にハウス・ミュージックに魅了され、ハウスのDJに転向、その後アシッド、ハードコア、そしてジャングルへと傾倒。90年にMOVING SHADOWを設立した。もともと、エンジニア、マニユピレイターとしての評価が高かった彼は、自ら、2 BAD MICEというユニット名で、91年以降、精力的に作品をリリースしてきた。さらに、95年のジャングル・シーンの向上に大貢献したゴールディーのマニュピレイターとして、ゴールディーのアイディアを、ロブの才能あふれるマニピュレイティングとエンジニアリングで具現化。絶賛を浴びたゴールディーのアルバム「タイムレス」には、まさしくロブの才能が光っていたのだ。ちなみに、ロブのフェイバリッツ・アーティストは、クインシー・ジョーンズ、ナイル・ロジャース、そしてマスターズ・アット・ワークにデヴィッド・モラレス。さすが、プロダクション・ワークとスタジオワークを兼任している彼ならではの答えである。


 さて、ここで本アルバムに収録されている曲についてふれていきたい。まずは、DISC-1のトラック①から、重厚なベースラインとヒップホップに通づるビート、そして途中から飛び出すチェンジ・ザ・ビートを使用したスクラッチ。もしかすると元ヒップホップDJだったロブがこすっているのかもしれない。いずれにしろロブのデザインによる曲であることには間違いないだろう。(92年3月リリース) ②は、トッド・テリーの影響を思わせる作品。パーカッションのサンプリングも効果的に使用。(92年10月リリース) ③は、ヌーキーの初期の作品。ハードコアハウスに傾倒していた彼のセンスが伺い知れる。(93年3月リリース)④は、MOVING SHADOWを代表するFOUL PLAYによるリミックス・ヴァージョン、ハードステップのルーツ的作品。(93年7月リリース) ⑤は、言わずと知れたロブ・ヘイのワンマン・プロジェクト、オムニ・トリオの名曲のリミックス・ヴァージョン。FOUL PLAYのリミックス・センスがキラリと光る。(94年1月リリース) ⑥は、トナカイがサンタを乗せて雪国を走る光景をついついイメージしてしまうアンビエントなトラック。でもトナカイさん転ばぬように気をつけてね! 途中テンポがスローダウンするところもトナカイを思いやる気持ちか? (93年12月リリース) ⑦は、94年に来日し、ハードコアなDJプレイを堪能させてくれたレイ・キースをフィーチャーしたハードステップの名曲。(94年6月リリース) ⑧は、ドライなキックにエッジの効いたベースラインが印象的なトラック。それにしてもヌーキーって、美しいメロディ作るよね。今度、松尾"KC"潔に聴かせて美メロのラインナップに入れてもらおう。(94年7月リリース) ⑨は、ジェイとアレックス、そして女性シンガーでもあるケリーの3人によるジャジーなユニット。まさに彼らのサウンドってジャズ・ステップというネーミングがはまりそう。(94年8月リリース) ⑩は、ソウルフルでダイナミックな女性ヴォーカルをフィーチャーしたトラックベースラインも重厚。いいサウンドシステムのあるクラブで体感したい一曲。(94年9月リリース) ⑪は、ロンドンのジャングル・パーティーでパワープレイされていた曲。またこの曲にMCがばっちりはまります。(94年10月リリース) 


 続いては、DISC-2の①からMOVING SHADOWの今後を担っていくであろう注目のユニット。クールでジャジーなサウンドは96年主流となりうるジャズ・ステップ・ジャングル。個人的にクラブとラジオで押してます。(95年末リリース) ②は、色っぽいホーンの音がたまらないジャズステップ。街のイルミネーションが似合うムードあるトラック。恋人とのドライブにどうぞ! (95年末リリース) ③は、ジャズ・ハウスに通づるトラック起承転結がきれいにまとまっているメロウでなごめる曲。こちらは、アフター・アワーズにどうぞ! (95年6月リリース) ④は、オムニトリオもジャズ・ステップにトライといった作品DJ KRUSTの名曲「JAZZ NOTE」のフレーズがフィーチャー。(95年7月リリース) ⑤は、映画のサウンドトラックを思わせる雄大なアートコア・ジャングル。人気のDJ BUKEMがSPEED"でスピンしてそうな曲。(95年7月リリース) ⑥は、BLUE NOTEでFABIOもスピンしていたジャズ・ステップ。それにしてもJMJ&RICHIEのここ最近の作品は、かなりイイ! (95年7月リリース) ⑦は、オリジナルよりもさらにジャジーにしたリミックス・ヴァージョン。この曲もアフターアワーズにどうぞ! 時々入る女性の叫び声は、グエン・ガスリーのサンプリングに違いない。(95年7月リリース) ⑧は、セクシーなジャズステップ。トランペットの泣きは、トム・ブラウンの名曲「FUNKY FOR JAMAIKA」のサンプリング。(96年リリース) ⑨は、タイトルのごとく都会の香りのするトラック。でも時折入るパトカーのサイレンが治安の悪い街を臭わす。(95年7月リリース) ⑩は、こちらもクラブで使用頻度の高いジャズステップ。もちろん僕もヘヴィー・ローテーション中です。(95年7月リリース) ⑪は、ロンドンのKISS-FMでよくオンエアされていた曲。そういえば、ジャイルス・ピーターソンもアクア・スカイ押していた。(95年8月リリース)


 いうことで、本アルバムの収録曲を簡単に紹介してみたが、やはりMOVING SHADOWは、はずれなし! 特にここ最近のトラックは良質のジャズ・ステップが多く、特にオススメ! あなたもレーベル買いしませんか?!

DEC.1995 Toshiaki"DAZZLE--T"Komiya


1995年6月21日水曜日

ムーヴィング・シャドウ&サブアーバン・ベース・プレゼント~ザ・ジョイント

 



JOINT

UKにおけるパーティの歴史についてざっと触れてみよう。

'87年頃より始まったウエア・ハウス・パーティ・シーンの規模はますます大きくなり、レイヴと呼ばれる様になる。'89年頃には英国中に広がり、各地で何千人何万人という規模でパー ティが行われるようになった。

この頃、このジョイント・アルバムCDの2つのレーベル、Suburban Baseレーベルのダニー・ドネリー氏とMoving Shadowレーベルのロブ・プレイフォード氏は、既に顔見知りのDJ同士として知り合っていた。ロンドンの北東部、電車で約30分程行った所。ダニー氏のホームタウンに、’Boogie Times’というダンス・ミュージック専門のレコード・ショップを開いたのが89年。その同時期、ロブ氏はMoving Shadowというレコードレーベルを、これもまたLONDONの北部、郊外をベースに始める。'91年に入ると、レイヴ・パーティもドラッグの悪いイメージの為、警察の弾圧により縮小を余儀なくされ、だんだん盛り下がっていく。ダニーもロブも、それまでメインだったDJ活動を減らし、クリエイティブな方向へ力を注いでいく。'92年には、ロブに次いで、ダニーもレコード・ショップの上にSuburban Baseという郊外をベースにした「Sub Bassのかっこいいレーベル」という意味あいを持ったレーベルを立ち上げる。尚、Moving Shadowの名前の由来は、友達が挙げたいくつかの名前の候補から、「クラブの中でゆれ動く、ダンスする影」というMoving Shadowを選んだというもの

この様なクラブ系の音楽では、12インチ・シングルをリリースしていくというのが通常。その場合、まずマスター・テープをカッティングする前に、ダブ・カッティングといって、1 枚〜2枚だけ試験的に皿にする事もしばしばある。そのダブプレートをもって、知り合い のDJやレコードショップで、回して現場の音を実感し、客の反応を見て、さらにミックス・ ダウンをし直す場合もあるし、そのままメインをカッティングするという決断を出す時もある。

Moving Shadowのロブは自分のレーベルの次のシングルのダブプレートや、また、その後 のテスト・プレスを友達の、ダニーの店、'Boogie Times'というレコードショップへ持って 行っては試聴し、対策を練っていた。また、その後'91年に、レーベルを発足させた Suburban Baseのダニーにとって、ロブの助言は有益なものであった。そして同時にお互い の音楽に対する信頼関係も深まっていった。Suburban Baseレーベルからは 'Drum and Base'というコンピレーション・アルバムシリーズが、'93年に出され、2枚目、3枚目をリ リースするうちに評判を呼び、大成功を収める。デザイン、アルバム・タイトルの選び方と いったようなダニーの企画力と選曲の良さが評価されたのだ。'Boogie Times'に出入りして いたロブのMoving Shadowレーベルの音 (サウンド)を気に入っていたダニーの申し入れに

より2つのレーベルの共同コンピレーション’JOINT I’を発売する事になった。そして、その後'94年に、’JOINT II’をひき続き発表した。このメルダックより、発売された 'Joint Album’は’JOINT I’と’JOINT II’を、更にジョイントさせて1枚にしたスペシャルバージョンである。今のところ世界でも、この日本発売のものしか手に入れることができないのである。初期のジョイントにはハード・コア系のものが多かったが、その中でも光っていたのが、2BAD MICEプロジェクトによるUNDER WORLDという楽曲。'92年頃の作品だが、この頃よりMoving Shadowレーベルの代表的な特色ともいえるIntelligent Jungleの傾向をはっきりと出している代表的な作品と言えるであろう。また、この2BAD MICEプロジェクトにはレーベル・マネージャーのロブ自らも加わっているのである。またSuburban Bassレーベルより参加D'Cruteプロジェクトの作品は ‘JOINT I '、'JOINT II’とそれぞれ一曲ずつ選曲されている実力のあるプロジェクトチームである。Claud Nineの'Blissful Knorance’や、Lick Back Organizationの’Ruff N Rugged'は、質の高いインテリジェント・ジャングルとして英 国でも評価は高い。また、Deep Blueの’The Helicopter Tune' は、ヨーロッパ・ジャングル界で大ヒットとなった。

ここで、少しジャングルという音楽の特徴と、またその中で、どのように分かれているかに ついて説明しよう。

ジャングルと言われ始めたのが、'87年〜'90年の間。いつも、新しい形態の音楽が生まれる時には、いろいろな人がいろいろな事を言うが、総合した地元ストリートのうるさ方の意見をまとめると、どうやらこの時期、イーストLONDONあたりのウエア・ハウス・パーティでラガのMCが、ハード・コアテクノのビートにあわせ、マイクでライブMCを乗せていたスタイル。ハード・コアとの大きな違いは、Big Bass Soundで、ベースラインと音色だけを、取り上げてみるとジャマイカのダンス・ホール・スタイルに似ていると言えるだろう。

そして、ビート感の違いは、ハード・コアの方は、ブレイクビーツといって、代表的なも のが、James Brownの昔の曲のドラム・パターンの一小節をサンプリングして、スピードをはやくして、BPM 130~150に上げ、ループを基本のグルーブとして使っているものが多いのに対し、ジャングルのビートとしてサンプリングしたものは、ドラム・マシーンのパターンを細かく切って、1拍、2拍、時には、1/4拍、半拍といったような、神技的なビートの組み合わせでグルーヴを作っているものが多い。サンプリングしたものをKeyboardにアサインし、それを手動でコンピューターに打ち込んでいるプロデューサーやプログラマーも、ジャングルには多い。ちょっと聴くと、速くて、チャカチャカしている様なビート感には、実に微妙なグルーブ感が隠されているのがジャングルの特色であろう。ドラムのパターンだけを聴いただけで、その作品にかかわっているアーテイストが判るというのも特色。例えばSHY FXや、Roni Sizeなどは代表的なプロデューサーである。また、ダンス・ホールのように、ベースの重低音、大きなノリも重要な役割を果たす。沢山の余分なダビング、例えばVocalやラガMCなどを省き、ビートとベースを前面に出したドラム&ベースというミックスの方法は、ジャングルの中でもクラブで人気のある代表的なスタイルである。

初期の頃は、Jungle Technoや、Happy Jungleという言葉にも代表されるように、ハード・ コアや、テクノの流れの“イケイケJungle"が多かったが、'93年頃からは、より重厚なラガ・ スタイルのジャングルが、数々の話題を集めた。これは、その言葉の通りラガMCや、レゲエの昔の曲のサンプルとジャングルのコンビネーションである。UKアパッチやジェネラル・ リービィといったTVにも顔を出すようなメジャー系ジャングルもこのラガスタイル。'94年春〜夏にかけて、一気にアンダーグランドからメジャーに、勢いを増して行く。またソウル、ファンク系のジャングルとしては、M-Beatの'Sweet Love' や、Tom & Jerry の 'Maximam Style' が耳慣れした楽曲のJungleバージョンとしてヒットした。

また一方、クラブや海賊ラジオ局が支えてきた、アンダーグラウンドでの人気を不動のもの にしたドラム&ベースの形態は、確実にファンを捕え、人気も以前とかわらず引き続いている。インストものの多いドラム&ベースの形態には、実験的なダビングをあわせるような作 品も出てきた。テンポも、以前の速いものから、メローなグルーヴのものへと移っていく傾 向にある。'95年に入ると、このような形態をIntelligent Jungleと呼ぶ様になった。ドラム&ベースの形態で、代表的なレーベルとされるのがSuburban Baseレーベル。そしてアンビエント、インテリジェントの形態で代表的なレーベルとして挙げられるのが、Moving Shadow と言えるだろう。2つのレーベルとも、音楽的にとても質の良いレーベルとして、ただヒット・ チャートを追いかけている様なレーベルとは一線を画している。それは、2つのレーベルと 深いかかわりのある’Boogie Time’レコード・ショップのシステムの音を聴いて頂ければ解ってもらえると思う。そして、耳の良い人は、直ぐに解るだろう。また、置いてあるレコード のセレクションや、訪ねてくる人々の雰囲気は、LONDONの郊外、電車で30分にある小さな 街にあるレコード・ショップとは思えない程、トンがっている。英国には、自分の街からは離れず、それをむしろ誇りに思って頑張っているレーベルがたくさんあり、皆、それぞれに都心から遠いにもかかわらず実力が有ることで、逆に人を引き付ける結果を招いていることがよくある。

このアルバムの、Moving Shadowのロブ・プレイフォードとSuburban Bassのダニー・ド ネリーも、その中の代表的な二人の若者として、今、最高潮にノっているレーベル・マネー ジャーである。

(WRITTEN BY NUTTY ‘M'/UMU Productions LONDON 0171-706-0140)

1994年9月19日月曜日

グリッド 「イヴォルヴァー」


  この夏、イギリスでは、ラジオやテレビでバンジョーの音が鳴りっぱなしだった。といっても、カントリーがヒットしたわけではない。その音の仕掛人は、このCDの主役グリッドだったのである。6月にシングル・カットされた「スワンプ・シング」は、あっけらかんとした明るい曲調と、一度耳についたら離れないバンジョーのサビで、じわじわとクラブを中心に売れていき、7月になるとナショナル・チャートでも1位を何週も続けるほどになっていた。U.K.は、もともとダンスものの強い国だし、チャートの上位にダンスものが食い込むことも珍しくない。しかし、それはほとんどの場合2アンリミテッド、カルチャー・ビート、Mピープル、スナップなどのコマーシャルで歌の入ったポップ・ソングである。純粋にクラブ向けに作られた曲が、こんなに売れてしまうのはあまりあることではない。しかし、それだけ「スワンプ・シング」が完成度の高い曲だったと言えるだろう。

 グリッドは、このアルバムが既に3枚目となり、めまぐるしく新人の出てくるダンス・ミュージック界ではベテランと呼べるキャリアを持っている。メンバーはデイヴ・ボールとリチャード・ノリスの2人。デイヴ・ボールは80年代初期に活躍したエレクトロニック・ポップ・グループ『ソフト・セル』のメンバーで、妖艶な声を持ったマーク・アーモンド(現在はソロで活動中)とともに「テインテッド・ラヴ」ほかのヒット曲と3枚のアルバムを残している。リチャード・ノリスは、もともとイギリスの音楽新聞『N.M.E.』の記者という変わり種で、アシッド・ハウスがイギリスで猛威を振るった87年から88年頃には、ジェネシス・P・オーリッジ(もとスロッビング・グリッスル、サイキック・TV)率いる『ジャック・ザ・タブ』や『MESH』というアシッド・ハウスのユニットに参加。そこでやはりハウスに目覚めていたデイヴ・ボールと出会う。リチャードは、15人が同時にレコーディングを進め、それぞれが1曲に1時間しか使ってはいけないというジェネシスの奇抜なアイディアを破り、1時間半を使ってしまったため、グループをクビになり、それがきっかけで、グリッド結成にいたったという。

 ファースト・アルバムは90年にリリースされた「エレクトリック・ヘッド」だ。これは、まだ、ロック/ポップス色が残っている(ヴォーカルが多用されている)ものの、アシッド・ハウス・フィーバーの発火点イビサ島からの影響をそのまま曲にした傑作「フローテーション」で、その後の方向性を見いだしている。レコード会社をイースト・ウェストからヴァージンに変えた彼らは、移籍後第1弾の「ブーム!」で、いきなりエクスタシーを経験し何かが変わったかのように、それまでひきずっていたニュー・ウェーヴ色を払拭し、軽快なビートを編み出す。それ以降は、トッド・テリーを起用し、サックスをフィーチャーした「フィギュア・オブ・8」、ブライアン・イーノと組んだ「ハート・ビート」と立て続けにクラブ・ヒットを放ち、アルバム「456」をはさんで発表された「クリスタル・クリアー」では、現在まで関係の続くイギリスのトップDJジャスティン・ロバートソンと初めて組み、当時のイギリスを席巻していたプログレッシブ・ハウスの波とも相まって大ヒットする。その後は、またディコンストラクションに移籍し、現在に至るのだが、彼らは、その長い活動歴からもわかるように、決して若くない。10代、20代中心、しかも先に述べたように、常に新しいアーティストが出てきて新陳代謝の異常に激しいクラブ・シーンにおいて、これだけ長い間コンスタントにヒットを放つのは並大抵のエネルギーではないだろう。このアルバムからも「スワンプ・シング」以外に既に「テキサス・カウボーイズ」、「ローラーコースター」もヒット・シングルになっている。確かにクラブでは年齢も、人種も、性別も関係ない。みんな楽しく汗を流し、時には誰かから水が回ってきたり、笛の音があちこちで鳴り、それがまるで話をしているようだったり、名前さえ知らない人と抱き合ってみたり…。彼らはそれを象徴しているかのように自由奔放で、いつまでも新鮮で、若い! 日本の若い人は20歳あたりになるともう「私も歳だし」などと言い出すが、そんな人達にグリッドの爪の垢を飲ませてやりたい。

 実は、今年の夏、ロンドンでグリッドのライヴを体験する機会があった。サポートはDJにジャスティン・ロバートソン、ライヴにハイヤー・インテリジェンス・エージェンシーとかなり美味しい組み合わせだった。ジャスティン・ロバートソンは来日もしているし、自らライオンロックとしてレコーディングもしているので、説明の必要はないだろう。ハイヤー・インテリジェンス・エージェンシーはバーミンガム出身のインテリジェント・テクノ系のグループだ。まだ日本では知名度が低いが、ヨーロッパではかなり評価が高く、10万人を集めた今年のラヴ・パレード(ベルリンで行われるテクノ祭り)でも、素晴らしいライヴを披露していた。{余談になるが、グリッドは「ローラーコースター」のシングルでも、グローバル・コミュニケーションズ(=リロード)にリミックスを依頼しているので、インテリジェント・テクノにも注目しているのだろう。}グリッド本体のライヴはというと、「456」発表時に見たものよりセットや衣装がかなり凝ったものになっており(「スワンプ・シング」のビデオに見られる、真っ白なやつだ)、サポートのメンバーも増えていた。例えば、「クリスタル・クリアー」のサックスや、「スワンプ・シング」のバンジョーは、生で演奏されていて、ライヴならではの躍動感が生み出されていたし、それによって、客の方も(クラブで絶叫というところまではいかないものの)だいぶいいノリになっていた。しかし、何より白眉だったのは、ステージの後ろに山のように積み上げられたモニターで、そこからは、絶えず彼らの作った映像が曲にシンクロして流されていた。グリッドのプロモーション・ビデオはなかなか日本では見る機会がないが、CGを多用し、かなり完成度の高いものになっている。以前読んだインタビューでも、彼らはかなりコンピュータに入れ込んでいると発言しており、音楽だけでなく、そこにビジュアルの要素を取り込んでいくことを今後の課題としていくようである。完全にコンピュータによってコントロールされるエレクトロニック・ミュージックだからこそ、その同じコンピュータというプラットフォームで映像をコントロールすることも可能なのだ。個人的には、ライヴよりもそういった方面の彼らの活動に注目している。なぜなら、例えばワープの「アーティフィシャル・インテリジェンスII」や、フューチャー・サウンド・オブ・ロンドンの「ライフ・フォーム」のように、今後ビジュアル方面に力を入れるエレクトロニック・ミュージックはもっと増えていくと思われるからだ。そういえば、いま話題のインター・ネット上にもグリッドは進出していて、サンフランシスコのレイヴ・フォーラムなどにアクセスすると、彼らのディスコグラフィーや、最新の曲(デモなども含まれる)が聴けるそうだ。クラブ・カルチャーは、一方で12インチのアナログ盤や、クラブ(寄り合いの場)という大昔からあるフォーマットをメインに拡がっているが、一方で、デジタルなコンピュータ・ネットワークにも確実に進入している。その両方のフォーマットに共通しているのは、スピードだ。12インチはジャケットも作らず、曲の完成から1~2ヶ月でリリースすることが出来るし、クラブでは、その日レコード屋の店頭に並んだ新曲がガンガンかかる。同様に、コンピュータ・ネットでは、ミュージシャンのスタジオからアップロードされた最新の曲が、世界中のどこからでも、自分の部屋を一歩も出ることなく聴くことが出来るのだ。その辺にまったく自覚的であるグリッドは、今後もシーンの最前線で活躍してくれることだろう。来日公演も予定されているというから、そちらの方も楽しみだ。また、何か新しい仕掛けで驚かせてくれることだろう。

(KEN=GO→)